俳句的生活(199)ー藤間柳庵揮毫の石碑(2)ー

俳句的生活(10)で紹介していますが、柳庵は湯屋山口屋に石碑を揮毫しています。そのブログを書いた時期は、茅ヶ崎の地誌を調べ出して間もなくのことで、全体的にまだ理解が進んでいませんでしたので、再掲とはなりますが、石碑をもう一度紹介いたします。

碑の頭のところに、右から ”あたみ” と横書きで書かれ、中央部には縦書きで、

かはらゆ 柳庵老人書
湯治所
山口屋
ゆかはら
外 あり

となっています。

この湯屋は、今では ”ルニコアオーミナミ” という洒落たフレンチレストランとなっています。場所が明治初年の柳島村大図をもとにして作られた絵図(柳島自治会作成)にも載っていますので、掲載します。(仏語のレストラン名は英語に直すと、Nico at Ominami となります。ニコはオーナーが飼っているオス猫の名前です。)

この絵図は、柳島八幡宮と善福寺との位置関係から、上が西になっています。左下に、山口甚左衛門宅(大南)となっているところが、湯屋山口屋です。また中央上部、藤間善左衛門宅(大藤間)が、現在は藤間資料館となっている柳庵の家です。藤間家では、柳庵だけは善五郎という名でしたが、代々善左衛門を名乗っていて、柳庵の子が家督を継いだとき(明治2年12月、柳庵70歳)にも、子は善左衛門を名乗りました。従って、この絵図の基になった柳島村大図というのは、明治3年以降に作られたものであると類推できます。

山口屋の湯は、藤間家の四百石船が、伊豆方面に物資を運んだあとの帰途、湯河原に立ち寄り、桶で運ばれてきたものです。藤間家の四百石船は、江戸時代になってからは、江戸との間の廻船が中心となりましたが、それまでは、戦国大名北条氏の本拠地である小田原や伊豆方面への商いが中心でした。藤間家のルーツは室町時代中期、北条早雲のころにまで遡り、江戸、明治になっても伊豆方面への商いは続いていたのでした。

老鶯の峡に谺す万葉の湯  游々子