写真で見るプレバト俳句添削(27)ー7月7日ー

今日のお題は七夕(たなばた)、出演者は森口瑤子(名人初段)、中田喜子(名人6段)、千原ジュニア(名人10段)の3人です。

原句 屑かごにある七夕竹の死骸  森口瑤子

屑籠プレバト俳句添削

森口さん: 娘が学校で七夕飾りを作り、家に持って帰り屑かごに捨てた。短冊はキラキラ光っているのに、ササの方はチリチリに乾いて死んじゃってるみたい、と思った。

ジュニア: ムチャクチャいいですね。季語を敢えて殺すのは、僕はすごくいいなと思う。

夏井さん: この句の評価のポイントは、前半「屑かごにある」の是非です。

浜田さん:現状維持! 先生から「小さいの? 大きいの?」

夏井さん: 眼の付け所は流石だと思います。七夕竹を飾られているものでなく、捨てられているものを描こうとしている。問題は,「屑かごにある」ことと、「死骸」という比喩のバランスです。屑かごだから小、死骸は大。小さいの?大きいの? 決めて下さいという技術的なことになる。

添削 屑かごにある七夕かざり乾きをり

森口さん: 「死骸」は大きな勇気がいることだったが、今回チャレンジしてみた。

游々子: この句の問題点は「屑かごにある」ではなく、「ある」です。「ある」は省略できます。よって、”屑かごの七夕竹の乾きをり” がベターです。しかし本当の問題はそんなことではなく、捨てた娘さんが全く登場していないことです。捨てられたところが屑かごであるというのは、どうでもよいことです。私なら「娘捨てし七夕飾り乾きをり」と致します。森口さん、破調は俳句ではないですよ!


原句 またござれ七夕さんの人の和よ  中田喜子

七夕プレバト俳句添削

中田さん: 「またござれ」は仙台の方言です。「いつござれ またござれ」という歌があるのですけど、そのお店にお馴染みさんが毎年やって来て、お馴染みさんが口コミでどんどん広げてくれる、ちょっと大人しめの句を敢えて作ってみました。

浜田さん: なに笑ってるねん。森口さん、これどうですか。

森口さん: 方言の「またござれ」と次の「七夕さん」というのが最後の「人の和」に繋がっていて、声とかまでが聞こえてくるような、、

夏井さん: この句のポイントは下五「人の和よ」の着地の是非です。

浜田さん: 現状維持!
中田さん: またか~
浜田さん: 先生から「余計なひとこと」
ジュニア: エ~!?

夏井さん: 「またござれ」、方言から始まる、これで空気感が出てきますね。勿体ないのは単語ひとつ、「和」。これは読んだ人が、この句を読み終わったときに感じるべきもので、その楽しみを取ってしまってはいけません。

添削 またござれ七夕さんのこの町へ

「へ」で余韻が広がりますね。この町へ行けば、この人の和を味わうことが出来る、読者が感じる処は置いておく、これも作品の配慮です。

中田さん: 本当ですよね~ この町へ そうですよね~

游々子: 中田さんともあろう人がミスしましたね。夏井さんの指摘は的を得ています。夏井さんは、「この町へ」と場所で「ござれ」の目的地を示しましたが、私なら「人の輪へ」とします。そうすると、「ござれ」は、七夕の人の中へ となり、中田さんの言いたいことにより近いのではないでしょうか。「またござれ七夕さんの人の輪へ」。


原句 病室の七夕竹に一礼す  千原ジュニア

病室プレバト俳句添削

ジュニア: 身内が長期間入院してたんですけど、見舞いに行ったときに、病室の七夕竹の短冊に、病気回復を願うことが書かれていたのを見て、本当にありがとうございます、と一礼した。

夏井さん: この句のポイントは上五「病室の」の是非です。

ジュニア: エ~!?
浜田さん: 一つ前進、 先生から「書かない勇気」

夏井さん: 非常に印象的な作品だったと思います。これは敢えて述べない、書かない勇気を持った一句なんです。先ず「病院」とぼんやり捉えないで、「病室」と丁寧に書きました。「病室」でその部屋の人、ここで分かるんですね。そして最後の「一礼す」で人物が出て来ますね。ここで、医者・看護師・同僚・部下が一礼しているのか、あるいは加害者が一礼しているのか、こういうこともありえますね。読み手は様々なドラマをこの句の奥に読み取る、これが10段の句なのです。

ジュニア: 冗談ジュニアのちんげん菜

游々子: この句は、書かない勇気のものではなく、書き切れなかっただけのものです。夏井さんが連想した例は、どれもくだらないドラマのもので、ジュニアが述べたものとは、大きくかけ離れています。ジュニアの実体験を、なるだけ誤解が生じないようにする必要があります。そのためには、”短冊に書かれた願い”  を表現する必要があります。「病室の短冊願に一礼す」。ここで、短冊は季語ではない、という反論が来ると思いますが、七夕よりも短冊の方が、映像的であり、短冊願とすることで、七夕のものであることは、明瞭です。季語であるかどうかに囚われず、より景色が見える言葉を使ったほうが、俳句として上質のものになると思います。