満蒙への道(26)ー辛亥革命(1)ー

革命は今だし青き月の咆ゆ  游々子

今年は辛亥の年1911年10月に武昌蜂起がおこり、翌1912年2月に、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀が退位してから110年となります。辛亥革命はこれで終わりではなく、1913年の第二革命、1915~16年の第三革命へと続いていきます。本稿は、この一連の中国革命に対して、いかに多くの日本人が共鳴し関わっていったかを描こうとするものです。

東京日比谷公園の一角に、松本楼という洋食レストランがあります。洋食好きであった夏目漱石が何度も通ったことのある風格あるレストランで、小説「野分」の第二章では、ビフテキを食べるシーンが詳しく描かれています。

現在の松本楼の社長は四代目で、小坂文乃(あやの)さんという方が務めています。彼女は10年余り前に、「革命をプロデュースした日本人ー評伝 梅屋庄吉(添付1)」という本を出版されていて、その本のプロモーションを兼ねての講演会が平塚で催されました。添付2はその時に、購入した本にサインしてもらったものです。

彼女の曽祖父は梅屋庄吉という人で、映画会社の日活を創業した人です。彼はそこで得た莫大な財を、惜しみもなく孫文に注ぎ、財政支援を一手に引き受けた人でした。その額は、現在価値に換算して、1兆円を超えるとまで言われています。梅屋が孫文と初めて会ったのは、1895年(明治28年)3月、日清戦争で日本の勝利が確定し、講和会議が始まったばかりの頃、孫文29歳、梅屋27歳、香港で梅屋が営む写真館でのことでした。そのとき梅屋が孫文に言ったのは、”君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す” というものです。以降、孫文が肝臓がんで死ぬまでの30年間、梅屋が孫文を資金的に支える構図は変わることはありませんでした。

2008年5月6日、中国の胡錦涛国家主席が来日され、その夜は、福田康夫首相主催の夕食会が、松本楼を会場として催されています(添付3)。胡主席は、孫文が梅屋に残した扁額「同仁」(添付4)の前にまっすぐに立ち、暫くの間じっと額を見つめておられたのことです。”同仁” とは、広辞苑によれば、”親疎の別なく、ひろく平等に愛すること” となっています。この額を見ての胡主席の記帳は、「中日友好、世世代代」というものでした。そして翌日発表された日中共同声明には、「北東アジア地域の平和と安定の維持のために共に力を尽くす」という文言が盛り込まれています。更に胡主席は、歴史問題を巡っての談話では、「平和、友好、協力が日中の進むべき道だと、歴史の教訓に教わった」と述べています。

今、日本の中国に対する立ち位置は、武に対するに武をもってす、となっていますが、もし習近平が来日することが将来あれば、その時はまた松本楼で、孫文に協力した梅屋の存在を説明できるよう、政府は取り計らってほしいものです。更に松本楼には、孫文夫人の宋慶齢が弾いていたピアノが遺されています(添付5)。習近平来訪の折には、是非ともこのピアノでの演奏会を演出して欲しいです。

添付1
添付2
小坂文乃さんのサイン
添付3
松本楼で小坂さんより説明を受ける胡主席
添付4
「同仁」の前での記念写真 日比谷松本楼の歴史 (matsumotoro.co.jp)
添付5
宋慶齢のピアノ 日比谷公園「松本楼」1階ロビーのヤマハピアノ1号機 孫文の奥様が愛用していたピアノ
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