満蒙への道(16)-満蒙奥地探検(4) 福島安正(2)ー

胡砂やみて馬の嘶く夜の秋  游々子

福島がベルリンを出発したのは明治25年2月11日、そしてウラジオストックに到着したのは翌26年6月12日で、まさに1年4か月を掛けて1万4千kmを踏破するというものでした。この間に使用した馬の総数は10頭、そのうち3頭が死亡し、2頭が廃馬となっています。

この行程のなかで最も困難を極めたのが、3千m級のアルタイ山脈を越えて外蒙古を通過した9月から11月に掛けての2か月でした。この2か月間は、時折り通過する小さな集落には無線施設が備わってなく、外部との交信が全くできない2か月でした。死亡した3頭の馬のうち、2頭までが外蒙古を通過していたときのものでした。馬は大量の水と食料を必要とするのですが、モンゴルの砂漠地帯ではその調達が困難で、馬の体力は急激に衰えていったのです。また、”胡砂吹く風” と称されるモンゴルの砂嵐は、天幕の中にいても呼吸困難となるほど、強烈なものでした。

外蒙古について福島が挙げた報告は次のようなものです。

* 清国の官吏は怠慢・無能であり、外蒙古の人々の人心は清国を離れ、ロシアに傾斜している。

* 清朝の政策により、ラマ寺院は娼楼と化し、かって剽悍勇猛であったモンゴル人の気質は今や去勢されたごとくである。辺患は取り除かれたが、雄藩を失った損失は大きい。

* 外蒙古には既に多くのロシア商人が進出しており、隊商にはコザック兵が護衛につき、またロシアと清国をつなぐ電信線が架設されつつあり、ロシアは政府主導で外蒙古に進出しようとしている。

福島がクーロン(現ウランバートル)に到着したのは、11月12日。ここでようやく電信が使えるようになり、東京の参謀本部へクーロン到着の報告を行い、自宅にも手紙を送り、無事を伝えています。福島のクーロン到着は、明治天皇にも伝えられていて、11月に天皇が2千円を家族に下賜されたことを、福島は妻からの手紙で知り(翌年1月、チタにて)、その時福島は、”跋渉一年、未だ志を酬いざるに、天皇嘉賞せられて恩賜あり” という詩をつくり大感激しています。

福島がウラジオに近づくにつれ、彼がいつ何処に到着したかというニュースが、連日のように新聞記事として報道されるようになりました。朝日新聞は、福島がウラジオに到着する前に文章家をウラジオに派遣し、日本への帰国の途次、福島からの聞き取りを行わせ、7月1日から前後120回にわたり、「単騎遠征録」という題での連載を始めました。国家は福島に、出発前彼が持っていた勲章に対して、7階級上の勲三等旭日章を授与しました。福島は、ベルリンを出発した時は、ドイツ皇帝ウイルヘルム2世に、ロシアを通過したときは、ペテルブルグでロシア皇帝アレクサンドル3世に拝謁していて、彼はこの時点で、世界で最も有名な日本人となったのでした。

胡沙の砂漠 満史会編「満州慕情」より
蒙古ラマ塔  満史会編「満州慕情」より