満蒙への道(15)-満蒙奥地探検(3) 福島安正(1)ー

夕立来や藩校板間黒光る  游々子

福島安正は、文官から陸軍に入り、陸軍大将にまで栄達した稀有な人物です。松代藩士の子弟であった福島が明治維新を迎えたときは、15歳の少年でした。(松代藩は、大阪夏の陣のあと眞田家が入封した外様藩でしたが、松平定信の実子(徳川吉宗の曽孫)が養子に入ったことにより、譜代大名の扱いを受け、幕末には老中をも出しています。幕末に海防を唱えた佐久間象山も松代藩の人です。)

明治2年福島は、幕府の開成所を引き継いだ開成学校に入り、英語、ドイツ語、フランス語の教育を、本国人より明治6年まで受けています。卒業後は司法省に出仕し、西南戦争では山県有朋のスタッフとなり、明治11年に陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉として軍歴をスタートさせました。彼は、最終的には10か国語に精通したと言われていますが、その語学力を買われて、陸軍の中では参謀本部で、情報活動に就くことになりました。駐在武官に何度も就き、シベリア横断の計画を上申したのは、ベルリンで駐在武官を務めていた明治24年1月1日のことでした。

この上申書が参謀総長によって裁可されたのは6月で、半年の時間を経ていました。この間に何が起こったかといえば、明治24年3月、ロシア政府はシベリア鉄道建設を正式決定し、内外にアナウンスしました。日本で襲撃を受けたニコライ皇太子が、そのあとウラジオストックでの起工式に臨席したのは、5月のことでした。シベリア鉄道が極東に与える影響が甚大なものであることは、誰にでもわかることでした。建設計画は以前から存在はしていましたが、クリミア戦争で財政難になっていたロシアに、鉄道建設の財源はなく、フランスが5000万フラン(現在価値で1000億円)の外債を引き受けることで、ゴーサインが出たものでした。

当時の日本陸軍参謀本部では、明治10年代に受けたドイツのメッケルによる、ナポレオン戦争やクラウゼビッツの戦争論などを教材とした、机上理論が中心となっていました。これに対して福島が主張したのは、敵国や戦場となる国の、地勢や民情を掴んでおくことの重要性でした。それを実行するに当たり、福島は自分が情報将校であることは隠し、あくまでも探検という名目としました。行路も、シベリア鉄道の予定地とは、近からず遠からずというものにして、怪しまれない配慮をしています。

福島がベルリンを出発したのは、明治25年2月11日、紀元節の日を選んでいます。参謀本部が彼に与えた資金は6000円(現在価値で6000万円)、ベルリンから帰国する外交官に与えられる旅費は4000円でしたから、わずか2000円が上乗せされただけのものでした。

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福島安正大将

ユーラシア横断経路  豊田穣著「福島安正 ユーラシア大陸単騎横断」より