満蒙への道(12)-南満州鉄道(3)ー

白梅や本郷までは江戸のうち  游々子

夏目漱石の小説では、主人公の父親として、実業界で成功した重役タイプの人物が描かれることが、ママ有ります。代表例として、「それから」の代助の父親を挙げることが出来ます。役人を経て実業家になった人で、維新のときに戦争に加わり、度胸が据わっていることを自慢する傑物です。おそらく漱石は、このようなタイプを描くに当たっては、彼の大の親友である満鉄二代目総裁の、中村是公をモデルにしたのではないかと思われます。

漱石は、その中村是公の誘いで、明治42年の9月から10月にかけての40日間、費用は全て満鉄持ちの超豪華旅行を行っています。「満韓ところどころ」という紀行文に描かれた満鉄は、本社を始めホテルその他、超エクセレントカンパニーであることが見て取れます。

中村是公の是公は、”よしこと” が正式の名称ですが、漱石が ”ぜこう” と呼んでいるので、一般にはそれで通用しています。彼は後藤新平の愛弟子で、初代総裁の後藤の後をついで、二代目総裁となった人です。中村は豪放磊落な性格で、そうしたところが、”大風呂敷” と評された後藤に愛された由縁でしょう。生まれは漱石と同じ慶応3年(1867年)で、漱石よりも10年長生きしています。彼らは大学予備門で知り合った仲で、予備門の予科・本科を経て、東京帝国大学に進んでいます。まだ一高その他の旧制高校が出来る前のことです。

中村の豪放磊落なところは、”満韓ところどころ” の中でコミカルに描かれたシーンがあります。アメリカ士官を招待した舞踏のあとの倶楽部のバーで、是公が何かしゃべらなければならなくなった時、大声で、”Gentlemen” と叫び、一同が次に何がしゃべられるのかと座が静まった時、次に発声すべき英語が、すっかり酒で洗い流されていたため、日本語で、”大いに飲みましょう” とやったため、アメリカ人が大歓声を上げて、彼を胴上げした、というものです。

また、この紀行文の中では、漱石たちが17,8歳であった予備門予科のころのことが書かれていて、落第したことが話題にあり、是公が漱石に、”やあ、あのとき貴様も落第したのか、そいつは頼もしいや” と大いに嬉しがった、と記されています。

こうしたことがあった月に、伊藤博文が、長春からハルピンまでの、ロシア所有の東清鉄道を買収する案件で渡満していて、ロシア蔵相と会見するためにハルピン駅に赴いた時、狙撃され命を落とす事件がありました。このとき中村も駅ホームに居て、2発の弾丸がかすめたと言われています。

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不明 – 鎌倉別荘物語 by 島本千也, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「中村是公(左) と犬塚信太郎(中)、夏目漱石(右)」