満蒙への道(11)-南満州鉄道(2)ー

月に光る撫順露天の黒ダイヤ(添付)  游々子

ポーツマス条約は、あくまでも交戦国であった日露の講和条約であり、ロシアが清国より譲渡されていたものを、清国ぬきで日本に譲渡するというのは、有り得ないことでした。そこで小村外相は、ポーツマス講和のあと、12月に清国に渡り、「満州に関する日清条約」を結び、ポーツマスで日露が合意したことを概ね認めさせ、更に鉄道守備の名目で、路線1kmにつき15人の守備兵を駐留させることまで認めさせました。この時の小村の論理は、日本は国運を賭してロシアと戦い、ロシアを満州から駆逐したのだから、日本の主張を認めるべき、というものでした。清国側が期待したのは、1900年の義和団の事件(北清事変)以前の状態に戻すことであったのですが、日本側は、聞く耳を持っていませんでした。このときの日本のスタンスは、”暴をもって暴に替え、その非を識らず” という史記の殷周革命の一節を、将に地で行ったようなものでした。

鉄道守備の名目で、満州に派遣された部隊は、満州駐箚師団とよばれ、昭和になってから関東軍となる魁でした。実際に守備範囲としたのは、満鉄付属地と称された駅を中心としたエリアです。満鉄付属地は、徐々に拡大されていき、例えば露天掘り炭鉱の町撫順での付属地は60平方kmにも及び、この面積は、茅ヶ崎市が35平方kmであることを思えば、いかに広大であったかが理解できます。付属地は、治外法権はもとより、徴税権も日本側が持っていて、植民地同様の扱いとなっていました。

こうした屈辱の歴史を経て来た中国が、今、習近平のもとで、偉大な中国の回復を目指そうとするのも、心情的に判らないわけでもありません。ところが、力でもって現状変更を図ろうとする手法は、かっての日本を含めた列強諸国となんら変わりなく、“暴をもって暴に替え、その非を識らず” として、ハンガーストライキをして餓死した 伯夷叔斉の故事を今こそ思い出すべきでしょう。

私の祖父は、この満州駐箚師団で、大正4年から6年までの2年間、鉄嶺に赴任しています。奉天に行った時に作った七言絶句が、中国人の書家に書いてもらったものによって残っていますので、私が読み下したものを、以下に紹介します。この時の祖父の年齢は、32歳でした。

曾て勃敵を摧く瀋陽の濤
南水北山感轉深し
酣戦の夢に驚き枕を挑ねて起きれば
奉天城外月沈沈

勃敵(ぼってき)=強敵  摧く=砕く  濤=河  酣戦(かんせん)=困難な戦い 

添付 撫順の露天炭鉱 「満州慕情」より