満蒙への道(10)ー南満州鉄道(1)ー

高粱の大地の揺るる「あじあ」かな(添付1)  游々子

ハリマンの提案は、新たに設立する南満州鉄道(株)の資本金を2億円として、そのうちハリマンが1億円を現金で出資し、日本側は、ロシアから譲渡を受ける鉄道施設を提供することで、1億円分の出資と見なすとするものでした。2億円とは、現在価格で2兆円、当時の日本の最大の会社の資本金の3倍となる巨大なものでした。日本はハリマンのこの提案を、覚書を破棄までして断り、資金は英国からの借款でまかない、満鉄の単独経営の道を選択することとなりました。

歴史に、”たら”、”れば” はありませんが、もし日本がこの時、アメリカとの共同経営の道を選んでいたら、日本は満蒙の権益を守るための七転八倒の苦労をすることなく、平和的に現在に繋がっていたのではないかと思います。ましてや、ハリマンはアメリカでの日本外債の最大の引受け者です。当初、ヨーロッパでの外債発行がうまくゆかず、どうやって戦費を調達するかが大きな課題だったのが、アメリカが引受けたことが呼び水となって、ヨーロッパでの外債発行が可能となりました。そうした事情も考えず、日本は、恩を仇で返したことになっています。小村寿太郎は偉大な外交官という評価になっていますが、この件でもって、日本を危険な道に導いてしまった外交官であり、評価は見直す必要があろうかと思います。

ハリマンは、世界を一周する旅行網を築くという夢は果たせないまま、明治42年、61歳で亡くなりました。アメリカはそれで諦めたわけではなく、何度も満鉄と並行する鉄道を、清国といっしょになってトライするのですが、日本はその都度、英仏やロシアと協調して、その案を潰していきました。満鉄創立から30年を経た昭和11年8月26日の時事新報は、”満蒙開発の大動脈大満鉄・社業洋々” という記事の中で、”外交的侵犯” を受けたことが記されています。満鉄は、炭鉱やホテル(添付2)、病院(添付3)等を含むコングロマリットとして成長し、この時点での社員総数は12万人を超えています。本業の鉄道は、明治40年の創業時、旅順から長春までの702kmだったものが、昭和20年には総延長12000kmにも達し、これは現JRの半分の距離となるものでした。

Super Express Asia.jpg
著者名はありません。 – 著者名のない古い絵葉書。塩崎伊知朗所有。「風雅なる新京名勝」という袋に入っていた絵葉書です。, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付1 疾走する亜細亜号 あじあ (列車)
ウィキペディアより引用
添付2 満鉄ヤマトホテル 「満州慕情」より
添付3 満鉄奉天病院 「満州慕情」より