満蒙への道(9)-ポーツマス(3)ー

航跡の白き対馬の卯波かな  游々子

私たちより一世代前の大人たちが、彼らがまだ存命していた昭和60年ごろまでによく口にしていたのが、日清日露までは良かったが、そのあとが良くなかった、というものでした。彼らにとってみても、日清日露は遠い昔のことで、彼らはおそらく学校で、この二つの戦争のときの外務大臣であった陸奥宗光と小村寿太郎の、不平等条約改正をなし終えたこととの抱き合わせで、日清日露は日本の偉大な勝利として、教わっていたのだろうと思います。現在外務省には、歴代外相のうち、唯一、陸奥宗光だけが銅像として顕彰されています(添付1)。

小村寿太郎は、陸奥宗光によって抜擢された外交官です(添付2)。ポーツマスの全権大使としては、最初、下関講和を仕切った実績のある伊藤博文の名が挙がったのですが、側近の反対で、小村にその役が回ってきました。新橋駅を発つときは、大勢の群衆の喚声の中で、側を歩く桂首相からは、”帰国する時には、人気は全く逆でしょうね” と同情された言われています。

予想通り、ロシア側は一歩も引かず、逆に日本が、全島占領していた樺太の北半分を返却するという譲歩をして、妥結に至りました。日本が獲得したのは、東清鉄道(南満州鉄道)だけとなり、輿論の風圧は、日比谷での暴動のように、強欲病に罹ったものとなっていました。

アメリカはビジネスの国であると言われますが、ポーツマスで講和会議が始まった直後に、南満州鉄道は、日本に譲渡されるのは不可避であると読んだ人物がいました。エドワード・ハリマンという、当時、鉄道王といわれていた実業家です(添付3)。彼の構想は、韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭鉱などに共同出資し、共同経営しようというものでした。彼は、ポーツマスでの交渉のさなか、8月31日には日本に到着して、日本政府首脳との会合を重ねていきます。以下、理解しやくするために、時系列的に記述してみます。

8月31日: ハリマン来日

9月4日: アメリカ公使主催の晩餐会が、アメリカ公使館で催される。日本側からは、伊藤博文(枢密院議長)、井上馨(元老)、桂太郎(首相)が出席。

9月5日(ポーツマス条約締結日):桂首相主催の歓迎宴が、首相官邸で催される。

9月12日: ハリマン一行宮中参内、明治天皇に拝謁。

10月12日: ”桂・ハリマン満州鉄道に関する予備協定覚書” の締結。ハリマンその日に離日。

10月16日: 小村外相、ポーツマスより帰国。覚書を破棄させる活動を開始。

10月23日: 日本政府、同協定覚書の破棄を決定。

10月27日: サンフランシスコ港に着いたハリマンに、同地の日本領事より、同協定覚書を破棄する旨の、日本政府からの通牒が手渡された。

という、いきさつです。10月16日から10月23日までの1週間で、小村がどのように、日本政府の決定を覆していったのかが、最大の謎です。色々調べたのですが、私のレベルでは、解明できませんでした。南満州鉄道をアメリカと共同経営をしていたら、その後の日本はどうなったのか、興味はつきないので、次稿でより詳しく述べることにします。

添付1 外務省の陸奥宗光像
陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす より

Portrait of Komura Jutaro.jpg
Taylor – Staff Writer (1904年) The World’s Work, 7, Category:New York: Doubleday, Page, & Company, p. 4,632, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付2 外相時代の小村寿太郎 ウィキペディアより引用

Edward Henry Harriman 1899.jpg
(en.wikipedia からコモンズに移動されました。), パブリック・ドメイン, リンクによる

添付3 エドワード・ハリマン ウィキペディアより引用