満蒙への道(8)-ポーツマス(2)ー

夏大洋靡く黒煙白艦隊  游々子

セオドア・ルーズベルト(添付1)は、日露講和を斡旋したという功績で、講和の翌年に、ノーベル平和賞を得ています。彼は、ハーバードの学生時代の日本人学友の勧めで、新渡戸稲造の「武士道」や忠臣蔵に関した本を読んでいて、親日派であることによって、講和が日本に有利になるように取り計らってくれたと理解されていますが、真実はそうではありませんでした。彼のスタンスは、アメリカの ”国益” に沿ったものであり、人間関係や親日ということで理解してしまった日本にとっては、不幸な事になってしまいました。

当時アメリカは、米西戦争を戦った後で、スペインより、キューバ、プエルトリコ、フィリピンを得ていました。(彼は陸軍大佐、騎兵の連隊長として従軍しました。)ハワイを併合したのもこの時期です。ところが東アジアにおいては、南北戦争のために進出が遅れていて、英・仏・独といったヨーロッパの列強やロシアが、租借という形で中国大陸に拠点を築いていたのに対して、まだ何も獲得していない状態でした。従ってアメリカの国策は、中国市場の門戸開放であり、満州を占領しているロシアを、日本が駆逐してくれることは、願ってもないことでした。但しそれは、日本がロシアに代わって、満州で独占的地位に立たないことを前提としたものでした。日本の外交は、このところを読み間違えてしまったのです。

日本海海戦のあと、太平洋に突出した海軍力を持つ国は、日本だけとなってしまいました。アメリカには未だ、大西洋艦隊しかなく、パナマ運河も開通していなく、アメリカはフィリピン防衛に不安を持つようになりました。日露戦後、カリフォルニアでは、日本人移民排斥のうねりが起こり、明治40年が両国にとって画期の年となりました。アメリカは日本を牽制するために、日本の連合艦隊より就役年の新しく、より大型の大艦隊を大西洋から世界一周の航海に出させ、日本では横浜港に、4列8隻ずつで停泊させました。戦艦群は白いペンキで艤装されていたために、白い艦隊と呼ばれています(添付2)。アメリカの軍艦が日本に寄港するのは、ペリー艦隊以来のことで、50年振りとなるものでした。日本では明治40年、明治天皇も勅許した帝国国防方針の中で、アメリカが初めて仮想敵国として明示され、以降変わることなく、昭和20年まで続くことになりました。

添付1 セオドア・ルーズベルト大統領
グレート・ホワイト・フリートより
添付2 航海中の白船艦隊
グレート・ホワイト・フリートより