満蒙への道(7)-ポーツマス(1)ー

赤煉瓦はう青蔦の表裏  游々子

アメリカ北東部には、イギリスから最初に清教徒たちが入植したニューイングランドと呼ばれる地域があります。その中心都市はボストンで、西のシリコンバレーと並んで、多くのIT企業が、郊外に連なっています。ボストンより車で1時間、北に向かって走れば、北米大陸屈指の紅葉の美しい州に入ります。ニューハンプシャーという州で、メープルシロップの産地となっています。ポーツマスはその州の港町、人口わずか2万人の町ですが、ここが日露戦争の講和会議が行われた場所となりました。

ポーツマス講和会議は、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋によって、明治38年8月1日に始まり、17回の会議を経て、9月4日に調印されました。アメリカ世論は、当初は日本に好意的であったのですが、小村外相の、新聞記者に対する素っ気ない態度に比べて、ロシア側全権のウイッテは、ユーモアに溢れたサービス精神で記者に対応し、日本は賠償金と領土割譲を目的として、戦争継続を望んでいると、マスメディアに吹聴していったため、次第にロシア寄りに傾いていきました。

そうした中、ポーツマスに於いて、賠償金や領土は日本の戦争目的ではなく、日本はそれらを要求すべきではない、と主張した日本人がいました。ダートマス大学で、歴史学の講師を務めていた、当時32歳の、朝河貫一という人物でした(添付1)。彼は福島の二本松藩出身者で、朝敵となった藩では、日本で官界に進んでも道は展けないと、早稲田大学卒業後、ダートマス大学へ留学したという人です。(二本松藩は、会津の白虎隊と同様に、12~17歳の藩士子弟で少年隊を作り、戊辰戦争を戦った藩です(添付2))。

朝河は日露の衝突を、1900年の北清事変以降、不法に満州を占領状態にしてしまったロシアに対して、日本の戦いは「門戸開放」と「領土保全」を実現するために、新しい文明の代表として、古い文明に挑戦するものであると、位置づけていました。ところがこの考え方は、日本国内の世論とは真向から対立していて、世論は、国家予算の4倍にもなった20億円の戦費を賠償金で取り戻せ、というものでした。何のための臥薪嘗胆であったのかと。新聞「日本」の陸羯南などは、30億円の賠償を主張しています。明治38年10月30日の東京朝日新聞は、講和余聞という記事に中で、朝河のことを、”怪しむべき人物” という表現で、取り上げています。

日露戦争の後、日本はアメリカとの協調ではなく、満州の権益を独占する方向に進んだため、アメリカとの関係は急速におかしくなっていきました。明治42年、朝河は、「日本の禍機」(添付3)という書物で、”日本の戦前の公言は、一時世を欺く偽善の言であって、今はかえって満州および韓国において、私意をたくましくせんと、世界の世論はみている。日本がもし不幸にして清国と戦い、また米国と争うようになれば、世界から孤立した私曲の国、文明の敵となっての戦さとなり、亡びるであろう。” と述べています。

朝河は、太平洋戦争の時期にも、日本国籍人としてアメリカで過ごしています。彼は、1942年(昭和17年)6月、ミッドウエイ海戦が起きた時期に、イエール大学を定年退官し、名誉教授となっています。ニューヨークタイムズは、1907年(明治39年)9月17日には、アメリカ女性と結婚したこと、1948年(昭和23年)8月12日には、享年72歳で死亡したことを伝えています。彼は、アメリカ社会の中で最も尊敬された日本人でした。

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不明 – https://web.archive.org/web/20120220021809/http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/history/jinbutu/hito3.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付1 朝河貫一 ウィキペディアより引用

Nihonmatsu Shonentai Manifestation Monument 20100625.jpg
baku13投稿者自身による著作物, CC BY-SA 2.1 jp, リンクによる

添付2 ウィキペディアより引用

添付3