満蒙への道(6)ー満州馬賊ー

黍畑夕日に赤く染まりけり  游々子

満州、中国では東北三省とよぶ地域ですが、満州族が清朝を建てたあと、多くの満州人は中国内地に入り、その一方で漢人の入植は禁じていたので、満州は人口の少ない地域となっていました。ところが19世紀後半より、ロシアの手が満州に及んできたので、清朝は漢人の入植を認めることに、大きく舵を切りました。その結果、人口は急膨張したものの、官憲は手薄で、夜盗、強盗の闊歩する極めて治安の悪い地域となってしまいました。そこで住民たちは、自警のための武装集団を持つことになり、その中で騎馬を乗り回すグループが馬賊(添付1)となっていきました。

日露戦争において、こうした馬賊集団を有効に活用したのは、福島少将をヘッドとする特殊任務班を作った日本側でした。福島少将は、明治20年代に、ベルリンからウラジオストックまでを単騎でシベリア横断した軍人です。組織化された馬賊隊は、満州義軍という名前が付けられ、多い時は2万人の規模となっています。

この馬賊隊の活動は、ニューヨークタイムズでも報じられていて、明治37年(1904年)9月11日の記事では、”7人の日本人を顧問とする1万5千人に達する武装した満州人のうち、5つの馬賊隊が遼河を渡り、奉天に展開するクロパトキンの右翼と後方を脅かしている。この馬賊隊は、モンゴルからのコサックの一隊を待ち伏せし、牛2000頭と馬500頭を捕獲した。” と書かれています。

また、馬賊隊の一部は、永沼挺進隊の新開河橋梁の爆破(添付2)に加わっていて、後方を警戒したクロパトキン司令官が、3万人の部隊を前線から後方に移動したため、奉天の会戦に影響を与えています。

日露戦後の満州義軍の解散に伴い、馬賊の一部は清国の正規軍として吸収され、一部は張作霖に見られるように、軍閥化していきました。昭和となり満州国が作られてからは、馬賊は日本にとっては害をなす存在とみられ、匪賊として討伐の対象とされました。「討匪行」はその頃の歌です。

ところで、昭和30年代の後半、青島幸男作詞で植木等が歌った、”学校出てから10余年、今じゃ会社の大社長” で始まる五万節は、大正時代にヒットした、”御国を出てから10余年、今じゃ満州の大馬賊” という歌詞をもつ「馬賊の歌」のパロディです。馬賊の歌は当時の青少年に、”大陸への雄飛” の夢を与えたことは間違いなく、満蒙への道の下地となりました。

添付1 出撃する馬賊 曹保明編「東北馬賊史」より
添付2 新開河橋脚爆破 作戦行路 島貫重節著「ああ永沼挺進隊」より