満蒙への道(3)-臥薪嘗胆(2)ー

太古より番いし苑や雪の嶺   游々子

日清戦争の講和条約は、明治28年4月17日、会議の場所となった下関の春帆楼(添付1)という料亭旅館で調印されました。3億6500万テール(両)という当時の日本の国家予算の4倍ともなる巨額の賠償金と、遼東半島を割譲するという内容のものでした。

そのわずか6日後の4月23日、時事新聞はロンドン発のニュースとして、”ドイツ、ロシア、フランスは、東洋に於ける彼らの利益を防護せんため、協同運動を執ることに一致せり” と伝えて来ました。三国干渉の始まりです。

政府は5月10日、受け入れを発表。その直後、5月15日と27日に、新聞「日本」に、嘗胆臥薪というタイトルで論陣を張ったのが、社長の陸羯南(添付2)と親交の深かった三宅雪嶺(添付3)という評論家でした。難しい表現をしていますので、意訳してみますと、”外邦に対して怨恨を持つものではないが、嘗胆臥薪の念を、どうして人々の心から無くすることが出来ようか” というものです。嘗胆臥薪と、史記、十八史略の順に表記したところが細かいところですが、ともあれ、この記事が、近代日本での臥薪嘗胆の最初の使用例となりました。注目すべき点は、この時点では未だ標的がロシアに絞られてなく、外邦という表現で、独・露・仏の三国を対象としていたことです。

臥薪嘗胆が対ロシア一国になったのは、明治31年3月に、ロシアが清国に迫り、旅順大連湾租借条約でもって、日本から清国に返還させた旅順大連を、今度は自分のものにしてからです。軍備拡張を主張する各地の集会で、弁士たちは臥薪嘗胆を合言葉とし、国民に勤倹を求め、海軍拡充の予算を獲得していったのです。日本海海戦で活躍した連合艦隊の艦船は、旗艦となった三笠を含めほとんどがこの時期に、英国をはじめとするヨーロッパ各国から購入したものです。中には、アルゼンチンが既にイタリアと売買契約を済ませていた2隻の軍艦を、日本に譲ってもらうことまでしています。

三宅雪嶺は加賀藩出身で、故郷からは白山が良く見える処で育ちました。ペンネームの雪嶺はそこから来ています。新聞「日本」は、社長の陸羯南と文芸欄を担当した正岡子規のタグで、日清戦争の頃が最盛期となっていました。ところが正岡子規が明治35年、陸羯南が明治40年に亡くなると徐々に廃れて来て、大正3年には廃刊となりました。それが再度創刊されたのは、大正14年のことです。新聞の名前も、「日本新聞」と変わりました。昭和10年まで10年間続いた新聞ですが、近年、その全てが発見されて、大きな話題となっています(添付4)。

添付1 明治期の春帆楼
春帆楼の発祥と歴史 より

Kuga Katsunan.jpg
不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付2 陸羯南 ウィキペディアより引用

Miyake Setsurei.jpg
不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付3 三宅雪嶺 ウィキペディアより引用

添付4 日本新聞
NHK政治マガジンより