満蒙への道(2)-臥薪嘗胆(1)ー

浙江の今年も実る稲穂かな   游々子

私が漢文というものに、初めて接したのは、高校一年での国語の授業でした。テキストは現代国語とは別の一冊になっていて、有名な唐詩の他には、司馬遷の史記から、鼓腹撃壌という伝説上の堯舜の話と、呉越興亡という春秋時代の話が載っていたように記憶しています。

呉越興亡というのは、呉王夫差と越王勾践との、紀元前5世紀の抗争です。呉は現在の蘇州、上海の西に隣接しています。越は現在の紹興市、上海の南130kmに位置しています。上海は揚子江(長江)の河口の右岸で、相模川でいえば、平塚市となるような処です。この辺りは、現在の浙江省の中心地域で、”蘇湖(江浙)熟せば天下足る” と言われたぐらいの、ウクライナに似た穀倉地域でした。

呉越の戦いにおいて、最初に敗死するのは、夫差の父親の闔閭(こうりょ)という王でした。彼は、あの孫子が仕えた王です。闔閭は子の夫差に、必ず越に対して復讐するように遺言して死に、夫差はそれを守り、軍備を蓄えて、越軍を撃滅します。そのときに夫差が取った行動が、薪の上に身を横たえて、復讐心をキープしていったということですが、それは史記には書かれていません。夫差は越王勾践を、会稽山に追い詰めて降伏させたのですが、宰相の意見を聞かず、命を許したために、20余年後に、勾践の逆襲にあい、自死するという羽目になりました。史記には、この20余年、勾践が食事の都度、胆を甞めて、会稽の恥を忘れぬよう、復讐心をキープしていったことが書かれています。

このように、史記には、勾践の取った嘗胆だけが記載されていて、夫差の臥新が書かれるのは、史記のあと1400年後の元の時代(日本では鎌倉時代)に書かれた十八史略に於いてでした。ここで初めて、”臥薪嘗胆” という四文字熟語が出来たのでした。

現在、紹興市の会稽山には、黄河を治水した功績によって夏王朝を開いた禹(添付1)の陵(添付2)が祀られています。呉越とは関係がないので、不思議な感じが致します。

日本においては、清少納言や紫式部が、史記について彼女らの書き物で触れているのですが、この時は未だ、臥薪嘗胆のうち、嘗胆だけを知っていたということになります。

夏禹像
馬麟 – National Palace Museum, Taipei, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付1 禹の肖像画 ウィキペディアより引用

Yu the Great mausoleum stele in Shaoxing, Zhejiang, China.jpg
Gisling投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

添付2 会稽山にある禹の陵 ウィキペディアより引用