満蒙への道(4)ー臥薪嘗胆(3)ー

四方の海危うき島へ鳥渡る   游々子

昭和に入り、臥薪嘗胆はもう一度キーワードとなったことがあります。それは昭和16年11月での、東條首相が主催した、対米開戦の是非をめぐる国策会議の場でした。会議のメンバーは、陸軍が参謀本部と陸軍省、海軍が軍令部と海軍省、政府が、外務・大蔵・企画院というものでした。

あらかじめ検討対象とされていた案は3つあり、

第一案: 戦争することなく臥薪嘗胆する
第二案: すぐに開戦を決意し、戦争により解決する
第三案: 戦争決意のもとに、作戦準備と外交を並行させる

というものでした。

第一案の臥薪嘗胆は、更に二つに分かれていて、一つは、日本が米国に対して限度を越えてでも譲歩し、一応の国交正常化をした上での臥薪嘗胆と、もう一つは、外交不調のまま譲歩せず、現状で臥薪嘗胆する、というものでした。

前者の臥薪嘗胆については、意外にも東郷外相と賀屋蔵相が強く否定し、全員期せずして断じて採用すべきでないと、即決されました。

後者の臥薪嘗胆は、永野軍令部長が、最下策と一蹴しました。海軍としては、時間がたてばたつほどじり貧となり、やるとすれば今しかないと、第二案支持する立場でした。しかし、やったところで米国を屈服させるシナリオはなく、出口を示すことのできない開戦案でした。

これに対して、賀屋蔵相と東郷外相は、開戦の機は我が国にあったとしても、終結を示せないような戦争はあり得ないとして、第一案での後者の臥薪嘗胆を支持するものでした。

ところが、鈴木企画院総裁は、物資の面から、臥薪嘗胆の継続は不可能であると説明した結果、第一案の臥薪嘗胆は全て消滅し、結局のところ第三案に落ち着いて、外交は不調のまま、真珠湾に行きついたのは、我々の知るところです。

私は、第一案の中の前者の、限度を超えてでも米国に譲歩するという臥薪嘗胆を選んでいれば、と思わずにはいられません。限度を超える譲歩とは、中国からの全面的撤兵です。昭和12年7月に始まった日中戦争は、満四年を過ぎていて、日露戦争と同じ数の死者を出し、4倍の戦費を使っていた陸軍は、その面子から受け入れられなかった、ということです。しかし、支那事変が起きたとき、陸軍は昭和天皇への上奏で、3か月で片を付けるといった、その責任はどうなったのか、この昭和16年の時点で、大元帥でもあった昭和天皇は、クーデターを覚悟してでも、陸軍の責任を追及し、陸軍の意のままにはならぬ、という覚悟を示すべきでした。

臥薪嘗胆という言葉は、軍国主義を助長した言葉として、戦後GHQにより使用することを禁止されました。今、プーチンが同じ過ちを犯そうとしていて、核を持っている分、世界は不安定になっています。

添付 昭和16年11月 対米甲案、乙案
インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 より