俳句的生活(195)ー本因坊秀栄と金玉均ー

朝鮮の近現代史に詳しい方はご存じのことと思いますが、1884年(明治17年)、甲申の年に起きたクーデターがありました。それは、韓国宮廷内の親清派勢力(事大党)の一掃を図った急進開化派が起こしたもので、甲申の政変と呼ばれるものです。首謀者は金玉均という開化派官僚で(添付1)、政変以前に、2回ほど日本を訪問していて、福沢諭吉や井上馨たちと親しくなり、日本の明治維新に習って、朝鮮の近代化を進めようという立場でした。

政変は清国軍の介入で、わずか3日で失敗し、金は、日本人の手引きで日本に亡命してくることになりました。福沢たちは支援の手を差し出すのですが、時の最高権力者であった山縣有朋は、清国との摩擦を恐れて、彼を政府の監視下に置き、ついには小笠原の父島に隔離させるまでになりました。

金玉均は人間的な魅力を備えた人物で、政府の方針とは真逆に、多くの政財界人の知己を得ています。その中には、後藤象二郎の紹介で、村瀬秀甫が率いる方円社の勢いに押されて、不遇の時代を過ごしていた本因坊秀栄も含まれています。秀栄は会った瞬間から金に傾倒し、東京の玉均仮宅や本因坊家で、度々碁を囲むようになりました。

金玉均と本因坊秀栄の対局棋譜は、1局だけ残っています(添付2)。その碁譜には、明治十九年二月二十日本因坊家において対局、とあり、六子中押勝 岩田周作となっています。岩田周作(添付3)とは、金玉均の日本通名です。本因坊秀栄に六子とは、現在でいうと、アマ5段の力量です。棋譜を並べるに、力戦奮闘して勝っていますから、棋力は相当のものです。

小笠原に隔離された金玉均を追って、秀栄も渡航するのですが、当時は3か月に一度の帆船の便で、片道2週間かかるというものでした。当時の小笠原の島司は、立木兼善という、淡路島出身の徳島藩士族で、小笠原赴任の前には、福島、長野、福岡などの県令を務めた人物です。立木は、金玉均の世話を善くし、住居や食事などの待遇改善を図っています。秀栄はこの間、金玉均や立木たちと囲碁対局したのは勿論ですが、1万を超す量の布石研究をしたといわれ、秀甫亡き後、大名人に成長していったのは、この時の研究によるものと言われています。

立木と金玉均と秀栄の3人は、島で友情を深めていきます。立木が山水画を描き、それに金が詩を付け、秀栄に贈られた一幅の掛け軸が、秀栄没後、夫人より愛弟子であった雁金準一九段に渡り、その遺族を経て、今、京都洛北にある高麗美術館に所蔵されています。私は10数年前に家族と共にそこを訪れたのですが、学芸員の方にお願いして、特別閲覧させてもらい、写真まで撮らせて貰いました(添付4)。

金玉均は小笠原から帰還した横浜港から、そのまま北海道に送られることになります。秀栄は迎えに行った横浜港で、金と同じ船に乗り、北海道に渡っています。秀栄は碁伯として北海道でもその名を知られていて、開拓使を含む地元の名士達と度々の碁会をなしています。

金玉均は日清戦争の直前に、李鴻章に巧みに上海におびき寄せられて、そこで朝鮮人によって暗殺されます。死体は朝鮮に送られ、そこで死刑宣告を受け、八つ裂きにされてしまいました。

甲申政変のあと、朝鮮に残された金玉均の一族は、ことごとく処刑されるのですが、これを見て絶望した福沢諭吉は、脱亜論を発表しています。この後の日本が、福沢が主張するように、朝鮮や中国の内政に関与せず、軍事大国を目指すのではなく、科学技術立国の道を進んだならば、日清日露もなく、昭和の悲劇につながらなかったのにと、残念でなりません。

春深し近江におはす百済仏

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不明 – http://unsuk.kyunghee.ac.kr/jangmyun_2004/NZEO/bbs/view.php?id=gallery_km&no=25, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付1 両班すがたの金玉均 ウイキペディアより
添付2 金玉均と秀栄の六子局

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不明 – 민태원, 갑신정변과 김옥균 (국제문화협회, 1947) 화보, パブリック・ドメイン, リンクによる

添付3 和服すがたの金玉均 ウイキペディアより
添付4 友情の幅