俳句的生活(193)ー俳句と囲碁(3) 村瀬秀甫ー

囲碁をする人にとっては、村瀬秀甫という棋士は、超ド級の打ち手ですが、一般には、本因坊秀策ほど著名ではないと思います。しかし、呉清源の師匠であった瀬越憲作九段は、秀策がもっと長生きして、成長した弟弟子の村瀬秀甫と相まみえていたなら、勝敗成績はどちらが上かわからず、秀策が後世に棋聖と称されることは怪しかったであろうとまで、言い切っています。

秀甫の幼名は弥吉といい、本因坊家で秀策の弟弟子となり、秀策亡き後は、実力ナンバー1となったのですが、家が貧しかったせいなのか、本因坊家の跡目にしてもらえず、幕府の瓦解もあり、失意のなかで、諸国を訪歴しています。そうした時期の俳句が沢山残されていて、囲碁界で俳句を良くした最強棋士である、と断言できるでしょう。彼は書も良くし、短冊も遺っています。添付したものは、「夕汐のあとの広さや春の月」というものです。

明治12年、彼は本因坊家のような家元とは別に、方円社という囲碁結社をつくり社長となります。方円社は本因坊家を凌駕するほどに大盛況となり、明治17年には、本因坊家の当主である秀栄との十番碁で、秀栄先の手合い(二段差)を5勝5敗で打ち分け、秀栄から本因坊を譲られ、十八世本因坊となりました。同時に、本因坊家に伝わる「浮木の盤」という名盤も譲られ、秀甫は一人になった夜に、その盤を頭より高く差し上げて、気が狂ったように踊り廻ったと言われています。しかし、彼の本因坊在位はわずか2か月で、明治19年に、49歳で熱海で没しました。秀甫の結婚相手は、彼が信州歴訪中に倒れた時に介護した「たき」という女性で、大正九年五月十二日付けで書かれた「浮木の盤・証明書」に、故十八世本因坊秀甫未亡人 七十九歳 村瀬たき という書付が遺っています。これによって夫人は、秀甫より四歳年下の、天保十三年生まれの女性であったことがわかります。

ひと戦して隈もなし竹の月

この句は、秀栄との向先の十番碁を5勝5敗で打ち分け、晴れ晴れとした気持ちが中七の、”隈もなし”  という措辞となっています。

移りゆく旅や布団の長みじか

この句は、まだ本因坊家に居た時の若い遊歴時代のものと言われています。安宿での布団の有様が詠まれていますが、惨めさを感じさせないのは、若く希望に満ちた旅であったからでしょう。

海と山一夜替わりや旅の月

この句も、遊歴時代のものです。一日で、泊まるところが海から山に替わっていく、これも若さを感じさせる句です。