俳句的生活(183)-コロネット作戦ー

太平洋戦争の末期、本土決戦として、大本営が想定していた米軍の上陸地点は、九十九里浜、茅ヶ崎海岸、日南海岸の3ヵ所でした。日本軍が本命視していたのは、九十九里浜だったのですが、近年マッカーサー記念館で、「コロネット作戦」と名付けられた日本本土侵攻の資料が見つかり、米軍の侵攻地点は、茅ヶ崎海岸が本命であったことが明らかになってきました。動員兵力は30万人、決行日は昭和21年3月1日と決められていました。もし、終戦が半年延びていたら、日本海軍が萩園や南湖に造った陣地は、1時間の艦砲射撃で壊滅し、首都東京は1週間で陥落、地上戦での死者は100万人を超える大惨事となっていたことでしょう。

”コロネット” とは、馬蹄形をした冠という意味で、関東地方を囲む二つの海岸から上陸し、首都東京を目指すというものでした。陸軍は当初、中国戦線から装備を引き抜き、本土決戦に回そうという算段でした。大本営より参謀総長が中国に視察に赴き、全く不可であることを認識して帰国したのですが、報告は曖昧で、陸軍上層部から本土決戦回避の声が挙がることはありませんでした。

私事になりますが、父より8歳年下の叔父は、九十九里浜からの上陸に備えての、栃木県那須野にある航空基地に、201神鷲隊という特攻隊員として待機していました。終戦の日のわずか2日前の8月13日に、敵機動部隊が犬吠岬沖に現れたということで、夕方2機でもって突入していきました。10年前になりますが、恵比寿の防衛研究所に、その時の資料が残っているということで、閲覧しました。添付1は、8月13日の部隊の昼食会、添付2は、右から二人目の左横顔の人が、私の叔父です。添付3は、僚機と共に離陸した写真です。

17ページに及ぶ陸軍の報告書には、叔父の遺書も添えられていて、知覧の特攻記念館に飾られている手紙とよく似た内容のものとなっています。末尾には、次の二首が添えられていました。

浦安の國安けれと祈りつつ 必沈期して我は征くなり

大君の御楯となりて我は今 屠龍を駆りて空母突入

生きていれば百一歳か夏の雲
春まだ来こころを寄するイコン像
スキタイ馬時を駆けゆく麦の秋

添付1
添付2
添付3