俳句的生活(177)-大山詣りー

テレビがまだ白黒であった時代、昭和36年から39年にかけて、NHKの日曜夜8時から放送される「若い季節」という番組がありました。銀座に本社を置く「プランタン化粧品」という会社が舞台で、生撮りの放送でした。有名俳優が入れ替わり立ち代わり登場するドラマで、誰が主人公なのか判らないというような筋書きのものでしたが、その中で、まだ二つ目の落語家であった古今亭志ん朝が、気っぷのよい江戸弁で喋るのが、印象的でした。彼は伝統芸能の家で育ったにも関わらず、この頃より盛んにテレビに登場したのですが、後にはきっぱりとまた、古典落語の世界に戻っていきました。この辺りは、狂言の野村萬斎や雅楽の東儀秀樹と、青春時代の過ごし方が似通っています。

志ん朝が晩年に演じた「大山詣り」という古典落語がユーチューブで公開されています(添付1)。話のあらすじは脇に置いておいて、この落語より、昔の大山詣りというものがどんなものであったかを垣間見ようとするのが、本稿の主旨です。

江戸から大山の登り口である伊勢原までは、約70kmの距離があります。途中、どこかで一泊しなければいけませんが、それは、どこで遊ぶかによって、決めていたようです。この落語では、帰りは神奈川宿(現在の横浜)に泊まり、金沢八景で舟遊びをしています。当然、藤沢宿に泊まり、江ノ島を観光するというルートもありました。

落語は、14人の講の一行ですが、この中には先達と呼ばれる人が加わっています。現代におけるツアーコンダクターですが、こうした人を必要としたのは、この大山詣りには、独特の決まり事があったからです。江戸を発つ前、先ず隅田川で7日間の水垢離を済ませて、白の浄衣を着て、白木の太刀を担いで大山に向かったのです(添付2、3)。先達の多くは、御師(おし)と呼ばれる宿坊から派遣された人で、自分の宿坊に人々を招き入れることが眼目でした。天保12年(1841年)の「新編相模国風土記稿」によると、166軒の御師の宿があったとのことです。太刀は1年間神前に奉納し、翌年自分の太刀を持ち帰り、家の守り太刀にするという習わしでした。伊勢原には、このような太刀を保存している御師の宿というのが、今も存在しています。

落語「大山詣り」は、志ん朝の父親である志ん生も演じています(添付4)。実景を扱った稀有な古典落語と言えるのではないでしょうか。

精進を落として春の舟遊び

添付1 【落語】古今亭志ん朝「大山詣り」
添付2 江戸庶民の信仰と行楽の地 〜巨大な木太刀を担いで「大山詣り」〜
日本遺産ポータルサイト (bunka.go.jp)より
添付3 「大山詣り 太刀 浮世絵」
BESTT!MES(www.kk-bestsellers.com)より
添付4  古今亭志ん生(五代目)大山詣り