俳句的生活(178)-十間坂ー

江戸時代、茅ヶ崎村は、23村の中で飛びぬけて大きく、天保の頃の戸数では、茅ヶ崎村の486戸に対して、2位の萩園村は115戸でしかありませんでした。茅ヶ崎村を構成する南湖・十間坂・本村が、それぞれ村として独立したがったのも、無べなるかなです。

南湖・十間坂・本村それぞれの地名の由来は、南湖(南郷)が鶴嶺八幡宮の南の地域、本村が、新宿に対して本宿という言い方があるように、”本” には、”本来の” という意味合いがあり、本村こそ茅ヶ崎村の中心であるという気概が込められた呼称です。

では、十間坂は何かということですが、これは十景坂が転じたものとされています。現に江戸時代に作成された絵地図等では、十景坂と表記されています。十景については、天保に作られた東海道名所図会には、”右に富士、大山、箱根、左に江嶋、鎌倉、六浦、金沢など見ゆるゆへ十景坂ともいふ” と記されています。7か所しか紹介されていないので、あと3か所を加えるとすれば、鶴嶺八幡宮、参道の松並木、姥島 などなど、茅ヶ崎八景のどこかとなるのではないでしょうか。しかし流石に六浦、金沢は眺望できるはずはなく、編輯にいい加減さがあります。

次に、坂についてですが、この辺り特に大きな坂はなく、強いて言えば、茅ヶ崎エリアで東海道は、緩やかな坂道となっていて、標高は、鳥井戸橋3m、十間坂7m、Toto工場前15mとなっています。自転車で走ってみると実感できる勾配ですが、江戸時代に徒歩の旅人が実感したのかどうか、興味あるところです。

十間坂という地名は、太平記で2ヵ所出てきます。一つ目は、新田義貞の鎌倉攻め、もう一つは、北条高時の遺児時行の中先代の乱で、鎌倉奪回を目指す足利尊氏軍と、守る側の北条軍とが相模川で戦ったあと、足利軍が十間坂で野営したという箇所です。2ヵ所とも、現在では茅ヶ崎の十間坂ではなく、腰越の十間坂であるとの説が有力視されていますが、足利の野営は茅ヶ崎の十間坂であっても良いのではないかと思っています。

十間坂はまた、明治になって茅ヶ崎に駅が出来てからは、海水浴客や南湖院への見舞客の宿泊地ともなっています。こうした用途には、もっと海よりの方が便利ではないかと、今の感覚では思ってしまいますが、現在の中海岸や東海岸には、当時は別荘こそあれ、人を泊められるような人家は余りなかったのではないかと、推測しています。

江戸時代、全国すべての寺院は、寺院法度に基づいて寺社奉行の支配下におかれ、本末制度によって管理されていました。十間坂にある円蔵寺は、茅ヶ崎地区の高野山真言宗の本寺で、明治初年に廃寺となった鶴嶺八幡社別当の常光院や西久保の宝生寺ほか10数の末寺の上に立っていました。現在このお寺には、俳句的生活(16)で紹介したように、大師像と乃木像が造られています。

青踏や大きく暮るる相模の嶺