俳句的生活(176)ー漱石の京都旅行ー

今日より115年さかのぼること、明治40年(1907年)3月28日、漱石は親友の狩野亨吉(こうきち)(当時京都帝国大学文科大学長)と菅虎雄(当時旧制三高教授)との懇親のため、京都を訪問したことが「京に着ける夕」に記されています。岩波の漱石全集でわずか7ページの小品です。冒頭から終わりまで、京都の寒さをこぼしているので、この日の温度を、気象庁の過去データで調べてみたところ、最低温度が、東京が3.0度であったのに対して、京都では―2.1度となっていました。翌朝は―3.2度ですので、格別寒い一日であったことは間違いありません。

漱石は生涯を通して京都には4回ほど旅行しています。2回目となる明治40年の旅行は、2月に旧制一高の教職を辞して東京朝日新聞に在宅作家として入社し、6月から新聞連載を始める虞美人草の京都取材をするためでした。京都には15日間滞在し、名所旧跡を訪問しています。

岩波の漱石全集は注釈が充実していて、「京に着ける夕」にも面白いことが載っています。先ず漱石の乗った汽車ですが、3月28日の午前8時に新橋停車場を出発し、午後7時37分に七条(京都)停車場に到着しています。そのあと、停車場まで出迎えに来ていた狩野亨吉、菅虎雄と、人力車3台で、約6km北の下鴨神社の糺の森にある狩野宅に向かっています。小品のなかで、”長い橋の袂を左へ切れて、長い橋を一つ渡って、”とあるのを、注釈では、この二つの橋を、加茂大橋と葵橋であるとしています。そうすると、人力車は鴨川の東側、おそらく現在の川端通りを北上したことになって、なぜ河原町通りを通らなかったのかという疑問が湧いてきます。狩野宅の場所についてですが、当初の私の推測は、湯川さんの邸宅がそうであるように、京都大学により近い下鴨神社の東側だろうと思っていたのですが、注釈では、京都市下加茂村24番地 となっていて、現在での地番は、京都市左京区下鴨森本町24番地です。そこは下鴨神社の社殿の60m西側にあるところの居宅でした。

狩野が借りた家は、下鴨神社で700年続いている社家の田中という家です。戦後に当時京都大学教授であったご当主が家を改造したとき、田中家と狩野との借用契約書と母親の日記が出て来て、狩野の借家は田中家であったことが確定し、更に家賃は月18円(現在価値で月18万円)であった事などが判ってきました。

狩野の大学までの通勤ルートは、糺の森の中の、白砂を敷いた長い参道を歩き、百万遍に出ていたものと思います。糺の森の中には、楢の小川というのが流れていて、百人一首では、”風そよぐ楢の小川の夕暮れは禊ぞ夏のしるしなりける” と詠まれています。この川は、神社境内の中では御手洗川と呼ばれていて、王朝の時代、伊勢に赴く斎王が身を清め、現代でも五月の葵祭の前に、斎王代が禊をするという行事が行われています(添付)。

漱石日記によれば、4月9日に彼は比叡山に登っています。京都市中の宿屋からの歩きです。虞美人草冒頭の場面どおり、漱石は根本中堂を訪ね、琵琶湖側の坂本に降りて、大津から京都に戻っています。また漱石は、この時期に偶々京都を訪れていた高浜虚子に連れられて、祇園での都をどりの見物や、一力茶屋での芸妓たちとの遊びを体験しています。京都市中の描写は、この経験が生かされているといえます。

「京に着ける夕」は、”春寒の社頭に鶴を夢みけり” という俳句で締められています。徹頭徹尾、寒さを辟易とする小品でした。

さざ波や春を浮かべる竹生島

《京都》「葵祭」のヒロイン、斎王代が下鴨神社で御禊の儀 | metropolitana.tokyo より