俳句的生活(166)ー朝鮮通信使ー

秀吉の野蛮な朝鮮侵略と、明治になってからの無益な関り合いの間にあって、パックス・トクガワーナを象徴する出来事が、徳川期200年の間に12回あった朝鮮通信使の招聘です。慶長十二年(1607年)の第1回から、寛永元年(1624年)の第3回までは、回答兼刷還使と称されて、秀吉の朝鮮出兵により日本に拉致された朝鮮人の帰還を目的としたものでした。以降、文化八年(1811年)の12回目までは、将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際しての、祝賀を名目とした使節となりました。

前稿のオランダ商館長の江戸参府と同じように、朝鮮通信使の行程も、瀬戸内海を大阪まで朝鮮の船で航海して、あと陸路を歩いて江戸へ向かうものでした。

第9回、享保四年(1719年)の通信使では、申維翰という製述官が、海游録という紀行文を著しています。前稿の江戸参府紀行文と同様に、この本の中で、日本がどのように描かれているかを紹介するのが、本稿の主旨です。

茅ヶ崎エリアについては、残念ながら、馬入川を舟橋で渡った、と一言あるだけで、関心を寄せていません。彼らの関心が、日本の再出兵の可能性を探ることでしたから、当地に無関心であったことは仕方ないことです。

全体のトーンは日本に対して非好意的で、現在の韓国の反日の人達の心情と似通っています。先ず日本のことを、倭と呼んでいます。1000年以上前に使用を止めた国名を使っているのです。これが意図的なのか、歴史を十分に理解していなかったのか、どちらか判りません。邪馬台国については、”世伝によれば、梁の武帝が大和を改名して野馬台(邪馬台)にしたという。これみな大和が野馬台に訛った音訳である。これはあたかも、博多が覇家台になったるが如きもの、一笑すべし。(平凡社東洋文庫 海游録 申維翰著 姜在彦訳)” と書いています。梁は六世紀の南北朝の国なので、有り得ないことです。彼は、秀吉のことを平賊、家康のことを人傑と呼んでいます。

彼はまた、日本には科挙の制度がないため、身分が固定していると評していますが、朝鮮では科挙の試験に合格した両班で出世できるのは、正妻の子だけで庶子では能力があっても、上には挙がれませんでした。申自身、庶子であるために、製述官にとどまっています。

江戸時代、日本人が朝鮮で居住できたのは、釜山に設けられた草梁倭館と呼ばれた対馬藩の貿易施設の中だけで、一歩たりと外へ出ることが出来ませんでした。日本人が初めて朝鮮内地に足を踏み入れたのは、明治8年に起きた江華島事件の後でした。幕末に高杉晋作が上海へ行った時もそうでしたが、日本人が長年抱いていたイメージとの落差に驚愕したとの記録が残っています。

朝鮮通信使の人達が最も愛でたのは、瀬戸内海の鞆の浦でした。ここには対潮楼と呼ばれる瀬戸内海を一望できる建物があり、朝鮮通信使のための迎賓館となっていました。ここに日本の漢学者や書家が訪れ、漢文による筆談での交流がなされていました。日本側の、500人にも及ぶ通信使にかけた費用と労力は莫大なもので、茅ヶ崎エリアでも、馬入川に架ける舟橋に多数の人足が駆り出されていました。一度架けた舟橋が、使節が通過する前の大雨で、流されたということさえありました。新井白石の時、接待費用を抑えるために、応対を簡素化することが検討されましたが、朝鮮側の反対に遭い、実現しませんでした。

航跡の白き対馬の卯波かな

対潮楼
ふくやま観光・魅力サイトより
福禅寺 対潮楼