俳句的生活(165)-長崎出島オランダ商館の医師たちー

鎖国時代、長崎の出島は唯一西洋との窓口となっていましたが、明治になり旧時代の物は無用とばかりに、無残にも埋め立てられていたのが、近年その価値が見直され、復元作業が進んでいるのは、喜ばしい限りです。

長崎出島オランダ商館の人達は、日本人からはカピタン(ポルトガル語、英語のキャプテンに相当)と呼ばれた商館長を始めとして、全員がジャワ島のバダビヤ(現在のジャカルタ)を本拠地とするオランダ東インド会社の社員でした。彼らは毎年、年1度のバダビヤからの船で来日し、基本的に1年で交代していきました。オランダ東インド会社の記録によれば、彼らの航海は、コロンブスたちの大航海時代より200~300年経っているにも関わらず、5隻に1隻は難破したそうです。風の向きで、夏に来日し、翌年の晩秋に離日するという航海であったために、東アジアの暴風雨に遭遇することが、度々起こったのでした。

彼らの内には、当然のことながら医師が存在していました。日本に到着したカピタンの最初の仕事は、江戸に参府して将軍や幕府高官たちに贈答品を渡すことでした。医師たちはその一行に加わり、江戸参府の紀行文を残しています。出島の三学者といわれる3人の医師のものが日本語に翻訳され、本として出版されています。一行は船で長崎から大阪に至り、あとは徒歩で東海道を江戸へと向かいます。茅ヶ崎エリアの通過で、紀行文ではどのような記述になっているのか、それを紹介するのが本稿の主旨です。

彼らの行程は、江戸への往復に1か月づつ、江戸での滞在に1か月という計3か月かかるものでした。最初に著された紀行文は、ケンペルという医師によるもので、元禄四年(1691年)に将軍綱吉に拝謁した時のものです。馬入川を渡るところから、藤沢の四谷に至るまでを、次のように記述しています。

”さらに半里進んで、約100戸の馬入村と、傍を流れる、日本人によく知られている同じ名前の大きな川の岸に着いた。川はものすごい水勢で、音をたてて海に流れこんでいた。。。われわれは再び底の平らな舟を使ったが、、、川を渡って一時間半、いわば砂漠のような地帯(町屋・南湖・小和田の村々があって、そこの住民たちは街道筋で暮らしの道を求めていた)を通って、、、先細になっていて遠くからピラミッドのように見える岩が、水中から高くそびえていて目についた。。。(平凡社東洋文庫 ケンペル著 「江戸参府旅行記」 斎藤信 訳)”

次の紀行文は、ツュンペリーという医師の、安永五年(1776年)の、将軍家治の時の、江戸参府のものです。

”小田原から四里の行程を、梅沢、国府新宿を過ぎて小磯まで行き、そこで昼食をとった。そこから七里ほどの道程を、平塚、馬入川を越え、南湖、小和田、藤沢町そして原宿を過ぎて、宿泊を決めている戸塚まで旅を続けた。馬入川は、この国の大きく流れが急で危険な川の一つであり、その上に橋を架けることはできなかった。そこで我々は専用に造られた平たい小舟で渡った。ここで山地は終わり、我々の目前には見渡す限りの平原が広がっていた。。。(平凡社東洋文庫 ツュンペリー著 「江戸参府随行記 高橋文 訳)”

3人目の紀行文は、シーボルトによる文政九年(1826年)の江戸参府ですが、茅ヶ崎エリアの記述は、馬入川だけのものになっていますので省略します。

彼らの江戸参府には、長崎からオランダ語の大通詞が同行しています。ツュンペリーの時の参府は、江戸で杉田玄白たちが「ターヘル・アナトミア」を会読していた時で、ツュンペリーや大通詞たちは、貴重なヘルプをしています。杉田玄白は大通詞に教えを請い、入門し、「解体新書」では序文を大通詞に書いてもらっています。

江戸城での将軍との謁見は実にあっけないものでした。商館長の挨拶に対して、将軍は言葉を一言も返さずに席を立つ、というものでした。幕僚が決めた通りに将軍は振舞ったのでしょうが、家康がウイリアム・アダムズ(三浦按針)から、根掘り葉掘り色々なことを直接聞きだしていたのとは、隔世の感があります。

阿蘭陀人でもカピタンと呼ばれをり

План острова Дэдзима в Нагасаки.jpg
Кавахара Кейга (1786 – 1860) – https://uk.wikipedia.org/wiki/Файл:Dejima-kawa.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「18世紀の出島」