俳句的生活(157)ー山岡鉄舟の書碑ー

山岡鉄舟こと鉄太郎の家系は、飛騨高山の代官を務めた旗本の家柄でしたが、彼は若い時分に一時、無頼の世界に身を投じ、その後、剣と禅で胆力を鍛え、徳川の世が終わろうとする絶体絶命の時において、徳川慶喜の助命と、江戸の無血開城を、将に渾身の力を振り絞って成し遂げています。江戸城総攻撃が中止となったのは、勝と西郷の会談によるものとされていますが、その前に、山岡が慶喜の依頼を受けて、わずか2日で江戸から駿府(静岡)までの170kmを踏破し、西郷と面談して成し遂げていたものです。勝と西郷の会談は、それを確認するためのものでした。

山岡は維新後、明治天皇の侍従として出仕し、若い天皇の教育係となります。明治16年、山岡は戊辰戦争で亡くなった人を弔うために、谷中に全生庵を造りますが、ここは、中曽根元総理が、折に触れて座禅を組んだことで、現代に蘇ってきました。山岡は建設資金を寄附という浄財に頼り、その返礼を書でもってし、毎日何十枚もの書を書いていったとのことです。そうした書の一枚が、手水石に碑として刻まれて、茅ヶ崎室田の八王子神社に残されています。

前面には、龍の一字が大きく刻まれ、日夜心温水 正四位 山岡鉄太郎 書 となっています(添付1)。左側面には、明治十九年と、喜捨主として、浦賀 鈴木弥曽八 という山岡家に出入りしていた魚屋の名前が刻まれています(添付2)。鉄舟が書を魚屋に与え、この魚屋が手水石への碑を寄進したという関係になっています。

鉄舟は明治21年、胃がんで52歳の生涯を終えています。慶喜より1歳年上の幕臣でしたが、薩長の藩閥政治の時代に、もっと長生きしてほしかった人物であります。

禅寺や電光影裏春風を斬る

山岡鉄舟の書碑1
添付1
山岡鉄舟の書碑2
添付2