俳句的生活(156)-新田信の句碑ー

茅ヶ崎町政は、初代町長の伊藤里之介が、大正8年に辞任したあと、二代と三代は短命に終わりましたが、小和田の大地主であった新田信が、大正10年に四代目の町長として着任してより、再びインフラ整備を推進するという本来の姿に戻ることが出来ました。

新田の最大の功績は、湘南開発期成同盟会の副会長として、湘南遊歩道の建設を促進したことです。遊歩道の建設は、彼の町長任期中の、昭和6年にスタートさせています。

新田信は、行政マンであるとともに、俳人でもありました。彼の句碑が二つほど、小和田の熊野神社に建立されています。一つは、小正月行事のどんと焼きを詠んだもので、文字碑の道祖神の裏側に刻まれています(添付1)。

荒涼の景色の中にどんと燃ゆ   涛哉

添付1

涛哉(とうさい)は新田信の俳号です。どんとは小和田では、「せいと」と呼ばれているそうです。

熊野神社には、伊豆と小和田の漁師の間で、姥島の所属争いが起きた時、京都からの公家が江戸に東下するときに、菱沼の「牡丹餅茶屋」で短冊に詠んだ歌が決め手となって姥島は小和田のものと認定され、それが歌碑として建立されています(添付2)。

相模なる小和田の浦の宇婆島は 誰を待つやらひとり寝をする

添付2

このような和歌ひとつで所属が決まった当時の日本は、なんとも大らかなものです。現在の国際社会の、事実でないことを捏造したり、軍事力で不法占拠したものを既成事実化しているのとは、大違いです。

この歌碑に対比するかのように、新田信は次のような句を詠んでいます(添付3)。

姥ヶ島尉の姿耀くばかり春の潮   古希 涛哉

添付3

尉(じょう)とは能の用語で、姥に対する老翁のことです。島の低いところが姥、高いところが尉に似ているということで、このような呼び名が付けられています。

潮騒や人みな無言どんど焼き