俳句的生活(153)-七里飛脚ー

都営地下鉄の赤坂見附駅を降りて、繁華街とは反対側の西方向に進み、弁慶橋を渡ると、右側に赤坂プリンス、左側にニューオオタニの二つのホテルが見え、更に進み紀尾井坂を越えたところで、上智大学キャンパスの裏手に出ます。このエリアは紀尾井町と呼ばれ、幕府の時代には、それぞれ紀伊、尾張、井伊の藩邸があったところです。

江戸の藩邸から和歌山のお城までの572km、紀州藩は7里ごとに、七里役所と呼ばれる23カ所の中継地を設け、常時、2名の中間を配置して管理していました。神奈川では、神奈川宿、茅ヶ崎の牡丹餅茶屋、小田原宿、箱根関所の4カ所に役所が置かれていて、さながら箱根駅伝の中継所を連想させます。茅ヶ崎では、この七里役所とは別に、相模川を渡れない時の待機場所として、中島に状部屋とよばれた小屋のようなものがありました。

常便は月3回で、江戸は五の日、和歌山は十の日に飛脚がたち、道中は8日であったとのこと、臨時の急便は4日で到着したそうです。

役所に詰めた中間は、国に帰れば足軽身分、その給金は年2石程度(30万円)で、これではいくら何でもやっていけるはずがありません。池波正太郎の小説に出てくるように、中間小屋が賭場となったり、刀を振り回しての顔役的な振る舞いなど、住民からは爪弾き(つまはじき)されることが多かったようです。

藩の財政負担も大きく、明治になり、前島密による逓信制度が出来て、ほっとしたのではないでしょうか。

春や昔なんば足なる飛脚かな

郵政博物館より「紀州家の七里飛脚」