俳句的生活(152)-江戸への近道ー

天正18年(1590年)、家康が関東入府したときの江戸湾は、新橋から大手町にかけて日比谷入江が食い込み、武蔵野台地の縁に太田道灌により作られていた江戸城の足元近くまで、海が迫っている状態でした。従って、家康に従って入府した三河以来の譜代旗本たちが配せられたのは、番町、麻布、神田といった処でした。当時の江戸城の正面は、虎ノ門、桜田門の側だったのです。国土地理院の地図で標高を調べたところ、埋め立てられたところが2mであるに対して、日本橋三越の地点は5mとなっています。因みに皇居は、20mの高台です。

肝心の東海道が整備されるのは、日比谷入江が埋め立てられてからのことで、日本橋から南に延びる現在の中央通りが出来てくるのも、三代将軍家光の時代になってからのことでした。

家康や秀忠が使っていた道は、多摩川を丸子橋で渡り、相模川を田村で渡り、平塚の中原に至る、中原往還(中原街道)と呼ばれるものでした。虎ノ門~平塚がほぼ一直線で結ばれ、後北条氏の時代から使われていました。川崎の小杉と平塚には、将軍の宿泊施設である御殿とよばれる本陣が作られ、東海道が整備される1650年ごろまで、将軍の鷹狩の際に使用されていました。武蔵小杉のあたりが川崎市中原区となっているのは、中原街道が通過しているためです。

江戸中期、茅ヶ崎から中原往還へ出る道が、新たに作られました。新道(しんみち)と呼ばれ、小出から現在の里山公園を抜けて、腰掛神社の前を通り、小出川を新道橋で越え、藤沢の用田を経て、中原街道に至る道です。東海道だと、一里塚から日本橋まで14里ですが、中原往還だと12里で行けたのです。元禄15年(1702年)に、大石内蔵助たち赤穂浪士が江戸入りしたのは、目立つ東海道ではなく、当時既に脇街道となっていた中原往還を通ってのものでした。

江戸なるは海への扉あしの角

陣屋と御殿などトリップ 008.jpg
尾形 隆一 – 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「中原御殿伝承裏門」