俳句的生活(146)-香川の旗本ー

承久の変のあと、香川の地の支配者が誰であったのか、特定が難しいのですが、江戸時代には、本間氏という旗本が、香川で約300石を知行しています。本間氏は、佐渡の本間氏や、更にその支族である酒田の本間氏と同族であると言われているのですが、その根拠は、佐渡の本間氏というのは、佐渡の守護職となった大佛氏(執権北条氏の支流)が、守護代として派遣した本間能久を始まりとして、その本間氏が村上源氏を名乗っていたことと、香川の本間氏の墓石の一つに、佐渡源氏と刻まれたものが存在しているからです(添付1)。

香川の本間氏で、明確に初代と特定できるのは、初めは今川義元の家臣で、のちに徳川家康の家臣となった本間季忠という、小牧長久手で戦死した武将です。遺族が家康の関東入府に従って香川の地に至り、季忠の法名の玄珊居士より、玄珊をとって、寺の名前を玄珊寺としたことが、相模風土記に書かれています。

玄珊寺の本堂(添付2)が、寺としては珍しい西向きになっているということで、それを見に玄珊寺へ行ってみたところ、幸運にも、三十世である前住職さんより説明を受けることが出来ました。師は55年前に滋賀県より来られた方で、今年おん年86歳、「香川の歩み」の中で、玄珊寺の稿を執筆されています。

師の案内で本間氏の墓石がある処まで登り、そこで小一時間に亘って説明を受けました。本間氏は、幕府が始まって暫くして、屋敷を神田小川町に移し、玄珊寺に埋葬されたのは3代までで、元々玄珊寺にあった墓石は3代までのもの(添付3)だったそうです。4代からは、谷中の長命寺に埋葬され、墓石も長命寺にあったのですが、師が玄珊寺に引き取ったとのことでした。

本間氏が明治維新を迎えるのは、11代の本間敬翁という人の時でした。鳥羽伏見の竹田口での戦で、新選組と行動を共にし、明治以降は、東京で教師をしたということです。20年程前に、郷土史家の坪田氏が、本間氏の子孫である人を茅ヶ崎で確認したそうですが、その後のことは、玄珊寺としても一切判っていないそうです。

師によると、香川における本間氏の評判は、芳しくないとのことでした。旱魃のため、年貢の減免を願い出た名主の三橋勘重郎を惨い形で処刑したことに依るもので、香川の水利は、天水によるものでしかなく、田植え時に雨が降らなければ、直ぐアウトになるものでした。その状態は、昭和15年に相模川左岸用水が出来るまで続いています。

玄珊寺は、相模準四国八十八ヵ所の札所にもなっていて、境内の入口には、新しい板碑で御詠歌が置かれていました(添付4)。

伊予の海三嶋の神のみずかきを にほふ香川にうつしくみけり

小牧長久手を臨む西向きの本堂は、久能山の家康の廟が西向きになっているのを想起させます。また古くは、纏向遺跡の建物跡が、東西に連なっていることも連想してしまいます。

初代季忠の墓は、今川義元の母親が創建した浜松の龍雲寺にもあるそうです。勘重郎事件をどういう思いでみていることでしょうか。

相模野に水のぬるむや義人塚

添付1 佐渡源氏の墓石

添付2 本堂
添付3 3代目の墓石
添付4 御詠歌