俳句的生活(145)ー香川のもののふー

昭和53年、香川自治会が、香川の地誌や歴史をまとめた「香川の歩み」という本を発行しています。この中で、平安末から鎌倉初めまでの、3代60年に亘って当地を治めた香川氏について、実に詳細にわたって記述がされています。それが可能であったのは、江戸時代には岩国藩の家老職を務めたご子孫の方々が、数度にわたって家系を整理して、三十四世の現在に至っているためです。岩国の居宅は、山口県の文化財にもなっている立派な長屋門を備えたものになっています(添付1)。

香川氏の祖は、鎌倉権五郎景正(景政)という人で、大庭氏や梶原氏とは親族関係となっています。景正は源義家に従って、後三年の役に加わった武将です。鎌倉に館を構えていたため、鎌倉氏と呼ばれていたのですが、四世孫の景高のとき、源義朝の長男である悪源太義平(頼朝の異母兄)の求めにより、鎌倉の館を譲り、代わりに香川の地を替地として貰って移ってきたのが始まりです。その時より香川氏を名乗るようにして、現在に続いています。景高は、源平の戦で義経に従って軍功を立てたことにより、義経より一字を貰い、経高と名乗るようになりました。

香川での館は、香川山の山号を持つ曹洞宗玄珊寺(げんさんじ)の近くであったようです。少し東には殿山があり、西には殿内という地名があり、香川氏の館と関係があると言われています。

経高が香川に移ってきてから約60年後に承久の変が起こります。結果は幕府側の大勝利で、膨大な数の荘園が朝廷側から幕府側に支配権が移動することになりました。このときの恩賞により、経高の孫である景光が、広島の八木村の地頭職に補されて、鎌倉、南北朝、室町、戦国と生き続け、関ケ原では西軍の吉川氏に組し、江戸時代には吉川氏の岩国藩で、850石を有する家老となっていったのです。

香川氏は宗家が広島に移ったあとも、一族の一部は関東に残り、多くの支族を出しています。その中の一つに、私の故郷である四国香川県の西半分を支配した支族がありました。香川氏は、南北朝、室町期には管領を務めた細川氏の四天王にも数えられる有力者となっていたのですが、細川頼元の四天王のひとりであった香川景則という武将が、南北朝の終わり頃に、頼元の命により讃岐に入り、西讃の支配者となっています。讃岐の香川氏は、細川氏が衰亡した後も、阿波の三好氏や土佐の長曾我部氏との抗争では生き抜いていくのですが、最後は秀吉の四国征伐によって、城を捨てて、土佐へと落ち延びていきました。その城というのは天霧山(添付2)に作られた天霧城というもので、城は廃城になっていましたが、山は、私の生家の北側にあって、よく見えたものです。

平安時代に遠祖を持つ家で、正確な家系図を備えた家はそれほど多くはありません。来年の大河「鎌倉殿の13人」で香川氏のことが触れられると良いと思います。因みに香川県という地名ですが、こちらは香川氏に依るものではなく、律令の時代に既に香河という地名があったとのことです。

僧堂の光る廊下や初座禅

添付1 「香川の歩み」より
添付2 善通寺から見た天霧山 善通寺のHPより