俳句的生活(129)-東海道分間延絵図ー

寛政年間から文化3年(1806年)まで、徳川幕府はおよそ10年の歳月をかけて、五街道の詳細な絵地図を作製しました。街道の状況を把握するためのもので、道中奉行に命じて作らせたものです。東海道のものは、東海道分間延絵図と呼ばれています。絵師は、菱沼と南湖の立場茶屋を描いた菱川師宣です。幕府も遅まきながら、街道管理の重要性に気付いたのでしょう。街道筋の旗本知行地が幕領に変えられていくのも、この時期から増え始めています。

絵図では、実際の一里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれています。約1/1800の縮図、道が曲がっている処は、そのままに描くと、縦が長くなるので、描く時にはゆるい曲がりとして、そのわきに実際の角度を記入するという念の入れ方です

とに角、東海道を横に展げていった絵図です。我々が見ることが出来るのは本になってからのものですが、そこでは更に縮尺がかけられて、字は小さく、判読が難しくなっています。本稿では、なんとか土地勘で文字を判読できる今宿~下町屋の部分を添付しました。信隆寺の脇を流れる川は、古相模川と記載されています。また、小出川は別名である赤池川となっています。お寺としては、信隆寺、仏国寺、上国寺が読み取れます。

相模川の旧橋脚は、古相模川に架かっていたものです。鎌倉初期では、古相模川が本流だったのでしょう。古相模川は、昭和50年代には、相模がとれて古川と呼ばれるようになっていました。何度か洪水を繰り返して、本流は現在の馬入の場所にまで移動していったのでしょう。

こうした絵図は、早くデジタル化して、自由に活用できるようにしてほしいものです。また、イメージとして取り込む際には、精密度を落とさず、文字が判読できるよう留意して貰いたいです。

我が村は寺と田圃と秋の川