俳句的生活(127)-和田篤太郎の囲碁修行ー

萩園村で最後の名主を務めた和田篤太郎は、俳人であり、教育者であり、囲碁棋士でもありました。彼が入門した先は、江戸両国に屋敷を構える本因坊家でした。当時の当主は、十四世本因坊秀和で、本因坊秀策や秀甫の師であり、明治後半に大名人と称された本因坊秀栄の父親でした。

篤太郎が入門した年は明らかでないのですが、初段となったのは嘉永元年(1848年)で16歳のときでした。当時の段位というのは、手合割を決める基準でした。初段の篤太郎と、師である秀和や、3歳年長の兄弟子の秀策との手合割は、篤太郎が三子を置くというものでした。秀和とは三子で5局の対戦棋譜が遺されていて、篤太郎の3勝2敗となっています。秀策とは三子で9局の棋譜があり、篤太郎の4勝5敗です。愛棋家の方は、篤太郎がどんな碁を打っていたのか興味あると思いますので、秀策との三子局の100手までの棋譜を添付します。これは初段になって直近の嘉永元年の8月に打たれたもので、篤太郎の中押勝のものです。左下から中央にかけての白石がうすく、最後はこの大石を殲滅しての勝となっています。

篤太郎の兄弟子である秀策は、嘉永元年11月に本因坊跡目となり、翌二年から御城碁に出仕して、13年間、無敗で19連勝を果たしています。御城碁とは、江戸城西の丸で、囲碁四家の代表者が対戦する御前試合でした。秀策は21歳から出場し、江戸城が火災に遭って中止されるまで、全勝を果たした棋士です。秀策流での小目からのコスミを秀策は、この一手だけは決して廃れることはない、と明言していたとおり、近年AIによって、再評価されています。

篤太郎は秀策から可愛がられ、秀策が広島の実家に帰省する時や、信州松代の地方棋士である関山仙太夫に秀策が招待された時などに、秀策に随行しています。棋譜としては遺っていませんが、旅の途中、何局も打っていたはずです。広島から戻ったときには、三段に推挙されています。秀策の松代での仙太夫とは、20局対局し、謝礼として20両(現在価値で200万円)を受け取っています。

明治になり、本因坊家は家禄の50石を失い、両国の屋敷は火災に遭い、幕末にコレラで亡くなった秀策に続き、秀和も失意のうちに明治6年に亡くなりました。こうした本因坊家の没落に伴い、萩園に戻った篤太郎は、段々と囲碁からは遠ざかっていったようです。

盛り崩す碁石の音や白障子

囲碁棋譜
嘉永元年八月
三子 和田一敬 中押勝 白 桑原秀策