俳句的生活(123)-御詠歌ー

四国八十八ヵ所の札所には、御詠歌と呼ばれている和歌が、収められています。この言葉は、弘法大師がお詠みになられたものと、字義としては解釈してしまうのですが、さにあらずで、各札所の信者によって創られたものです。(大師の和歌は、いろは歌が唯一残されているものです。)

四国の八十八ヵ所は歴史も古く、各札所の和歌は、多数の人により長い年月をかけて作られ洗練されていったものですが、相模国準四国八十八ヵ所の御詠歌は、一人によって全て詠まれ、奉納されたものです。

御詠歌を詠んだ人は、浅場太郎右衛門といい、父親が創設した八十八ヵ所の札所に、自分自身も参詣しながら、10数年を掛けて詠んでいきました。公表したのは、父親が亡くなって17年が経ったときです。

御詠歌で詠まれた内容は、いくつかのジャンルに分けることが出来ます。一番多いものは、仏の恵みの深いことを詠んだもので、半数以上にのぼります。善福寺(柳島)のものはその一例で、

吹く風に靡く柳の緑より なを慕はるる法(のり)の恵みは

というものです。善福寺には案内板にこの歌が書かれていますが、残念ながら消えかかっている状態となっています(添付写真1)。

二番目のジャンルは、農耕に関するもので、稔りの多いことを願ったものです。長善寺(矢畑)のものは、

梓弓春の耕し急ぐらん 矢はたの実りまとにかけつつ

というもので、掛詞の技法を使っています。

三番目のものは、自然界や人の心を詠んだもので、成就院(甘沼)のものは、

清滝の水の流れをせき止めて 結ぶ誓いや甘沼の里

となっていて、甘沼という地名が入っていますが、こうしたものは、三分の二以上にもなっています。

四番目のものは、神の恵みを歌ったものです。梅雲寺(下町屋)のものは、

春はなお梅のにほひにかくつちの 神も光をます鏡かな

というものです。神仏習合の時代ですから、神も仏も差異は無かったのでしょう。

浅場太郎右衛門の父親が、相模八十八ヵ所を創設した時、各寺には弘法大師座像を奉納しています。掛かった費用を合計すると、現在価格で1億円にもなるそうです。豪農にはそれだけの財力があったということで、江戸時代というものを再認識する必要がありそうです。添付写真2は、善福寺の座像です。

掌をあはす法の恵みや豊の秋

御詠歌
添付1 御詠歌(吹く風に)
添付2 大師座像