俳句的生活(119)-龍前院ー

鎌倉に二階堂と呼ばれる地名があります。源頼朝が奥州征伐のあと、平泉の寺院を真似て造った永福寺が、二階建ての仏堂になっていたことから、永福寺が建立された地域が二階堂と呼ばれるようになり、更に、この地に邸宅を構えた工藤氏という鎌倉幕府の文官の名前も、二階堂氏と呼称されるようになりました。

鶴嶺神社の北側に、龍前院という寺院があります。創建が800年前とされていて、丁度、和田の乱が起きた頃で、懐島の領主が懐島氏から二階堂氏にシフトした時期と合致しています。そしてその龍前院には、10基の五輪塔があり、古くから二階堂氏の墓であると伝えられていました。「新編相模国風土記稿」にその旨が記されていて、更に、沼田頼輔博士(関東大震災で出現した橋げたを、旧相模川橋脚と判定した歴史学者)も、二階堂氏のものに違いないとしていました。平成22年に出版された「茅ヶ崎市史ブックレット2」でも、その説にたって解説しています。

ところが、茅ヶ崎市教育委員会が、平成28年に、龍前院の五輪塔のある場所に解説板を立てるのですが、そこでは二階堂氏のものであるとは断定せずに、”中世にこの地域を治めた有力な武家の累代の供養塔”と、記述しています(添付写真参照)。「新編相模国風土記稿」は天保のころ、幕府によって編纂されたもので、二階堂氏が懐島を治めていたころから600年経ていますので、古文書などの一次資料が無い限り、信憑性は揺らぐのですが、とはいえ、教育委員会がいう有力な武家の候補に、誰を挙げることが出来るのか、なかなか納得の出来ない見解の変更であります。

龍前院のある浜之郷は、江戸期、旗本の山岡氏が知行する処でした。龍前院は山岡氏の菩提寺でもあり、五輪塔の脇には、累代の山岡氏の墓石が並んでいます(添付写真参照)。山岡氏が最初に墓石を作る時、五輪塔が現在地にあったのかどうか、それがわかる古文書が山岡家から出現しないものか、期待する次第です。

文豪の古都の住まいや秋深し

龍前院の説明板
五輪塔
龍前院の五輪塔 左は山岡家の墓石