俳句的生活(116)-千の川の源流ー

千の川は、梅田より上流、市立病院の北側を流れる辺りでは、かって暗渠であったのか、いつでも蓋を被せられるように、川の上部に鉄骨の桟が掛かったままになっていて、室田散策路と呼ばれる桜並木が、川沿いに続いています。ところが川は、室田三丁目、松林中学の北側あたりで途絶え、その先は埋め立てられていて、住宅地となっています。

千の川には源流はなく、水源は雨水、工場冷却水、染み出し水などで、水量は小出川などと比べて、極めて少ないものです。ところが年の内半分は源流があるといってもよく、それは夏の間、相模川左岸から取水した灌漑用水が流入しているのです。千の川は、平常時の流量が夏期に多く、冬期には少ない、そういう川です。

江戸時代、相模川のような大きな川に堰をつくり、用水を引くという工事は難しく、高座郡では専ら小出川に堰をつくり、農業用水を取得してきました。堰は南から、萩園、西久保、新藤、矢崎の4カ所につくられていました。しかしそれでは、新田が開発されてくると、水の需要をまかなうことが出来なくなり、相模川左岸に用水をつくることが考えられるようになりました。昭和5年に「相模川左岸普通水利組合」というものが出来、10年の年月をかけて、今の相模原市の磯部に堰をつくり、用水路を作ったのです。それは小出川の追出橋(おいだしばし)付近で、河床を横過し、室田を流れ、千の川の上流部において、その流末が合流するというものでした。その用水路は今も健在で、千の川の末端のところに流れ込んでいます(添付写真1)。用水は地下化されていて、現在表流水を見ることは出来ない状態です(添付写真2,3)。

小出川の追出橋とは、小出川彼岸花祭が行われるエリアの西端に掛かる橋です。昭和10年ごろは、人家はまばらだったでしょうから、用水路は地表に出ていて、長閑な田園の光景を作っていたに違いありません。

茅を千とし本流たらん秋の川

千の川
写真1 千の川への用水の流入
用水の蓋
写真2 地下化された用水路
用水
写真3 同上