俳句的生活(115)-茅ヶ崎の水道ー

茅ケ崎に上水道が出来るのは昭和10年、それまでは全て井戸の水を使用していました。ところが関東大震災で、南部の土地が隆起すると、井戸への水の流入が十分でなくなってきました。柳島の藤間家が経営していた藤間温泉は、湯が出なくなり、震災を契機に閉鎖されています。

そうした中、昭和に入ると、県では、湘南遊歩道の建設を中心として、湘南の総合開発が企画されるようになりました。県では、遊歩道と合わせて、寒川を水源地とする「大上水道計画」が策定され、昭和10年に、県営湘南水道が完成し、茅ヶ崎を始めとし、東は浦賀まで西は大磯までに給水するようになりました。

寒川の水源地とは、寒川神社の西側にある寒川浄水場のことです。初めは相模川の伏流水を取得していて、給水人口は4000人というものでした。昭和19年より表流水も利用するようになり、昭和21年には給水人口は、11万人に増えています。

寒川取水堰が出来るのは昭和39年のことで、高度経済成長が始まり、昭和53年の給水人口は196万人と激増しています。茅ヶ崎の人口も、終戦直後は4万人だったのが、今では24万人に増えています。

神奈川は渇水に強い県として知られています。平成8年が神奈川では一番酷い渇水の年でしたが、それでも10%程度の給水制限で済んでいます。給水のタンクローリー車が出動するという光景はありませんでした。平成13年には、それまでの相模、城山、三保の3ダムを合わせた以上の貯水量を持つ宮ケ瀬ダムが出来たので、余裕度は更に増したと言ってよいでしょう。

高砂緑地には、音貞の萬松園の名残りとして、井戸が残っています。貞奴が萬松園を原安三郎に売却した後、建物は建て替えられましたが、この井戸だけは昭和10年までは使われていたのではないかと、想像を廻らせています。

高砂の舊主の井戸や秋の暮

寒川の堰
平塚市博物館より「寒川取水堰」