俳句的生活(114)-東征軍ー

慶応4年の3月から4月にかけて、有栖川熾仁親王を総督とし、西郷を参謀とする慶喜追討の東征軍が、茅ヶ崎を通過していきました。相模川を挟んで、幕府軍との戦闘が噂されていただけに、柳島や中島、今宿の人達は、戦闘が回避できたことで、安堵の胸をなでおろしたことでしょう。つい3か月前には、柳島の領主である戸田勝強を頭とする幕府の歩兵部隊を見送った人たちは、あまりの事態の変転に、おおいなる戸惑いをもって、東征軍を迎えたに違いありません。

軍隊の遠征には費用がかかります。金庫が空っぽの新政府が、如何にして軍費を調達したのかについて調べてみました。

慶応3年の暮れに入京した薩摩軍は、全く金を持っていませんでした。将に鳥羽伏見の前夜に、三井組に1000両を拠出させて、戦に臨んでいるのです。現在価格で1億円です。この戦で勝利した新政府は金が集まりやすくなり、官軍として江戸に向かうときは、三井組を含めて京阪の3組が、1万両の献納に応じています。現在価格で10億円です。しかし数千人規模の軍隊の派遣に、これで足りるはずがありません。ではどうしたかというと、行く先々で兵糧と金子を徴収していったのです。

以下、藤沢宿がある相州高座郡32村に対して賦課されたものを、藤間柳庵が詳細に記録として遺していますので、それを紹介することにします。

1) 休憩して昼飯を取ったときは、兵1名につき銭100文(2500円)と米2合の提供
2) 宿泊した場合は、兵1名につき金1朱(7000円)と米4合の提供
3) 助郷より、駕籠、人足、馬の提供
4) 村高100石につき1両(10万円)の拠出

これだけのものを、各宿場ごとに東征軍は課していったのです。村民および名主の負担は大変なものでした。

東征軍の茅ヶ崎通過は、先鋒3000人が3月27日、総督を含めた本隊3000人が4月11日でした。江戸城の無血開城が決まった後の通過で、戦闘がなく、金銭だけのことで済んで、良かったのかもしれません。

この時期の三井組を指揮したのは、大番頭の三野村利左衛門という人でした。現在NHKの大河ドラマで、イッセー尾形が演じている人です。小栗上野介の中間から出世した人で、小栗が新政府に斬首されたあと、残った妻子の面倒をみています。実際の三野村はイケメンで、イッセー尾形の役作りとは大分かけ離れています。

西国のなまり流せる入梅かな

東征軍
茅ヶ崎市史5より