俳句的生活(99)-鎌倉右大臣実朝ー

今日は仲秋の名月、何年かに一度の、最も満月に近い名月だそうです。月を詠んだ和歌や俳句で、茅ヶ崎に関係するものがないかと、調べてみたところ、鎌倉幕府三代将軍である源実朝の歌集、金槐和歌集にありました。それは、相模川といふ川あり、月さし出でて後、舟にのりてわたるとて という詞書きに続いて、

夕月夜(ゆうづくよ)さすや川瀬の水馴棹(みなれざを)なれてもうとき波の音かな 

というものです。月の光、川面、棹、波、音、これだけで印象派的な絵画や音楽が脳裏に浮かんできます。俳句への転換も、要素を二つぐらい取って、措辞をうまく工夫すれば、5つぐらいの句はできそうです。兄の頼家もそうでしたが、源氏の将軍はよく相模川で舟遊びをしたようです。約15kmの距離がありますが、騎馬であれば何でもなかったのかも知れません。金槐和歌集は近代に入って、正岡子規や小林秀雄から高い評価を受けるようになっています。

実朝は、和歌にかまけて、政治的には非力というイメージがありますが、リーダーシップを発揮したところもありました。それは、馬入橋が架橋されてから十数年がたち、修理が必要になったときのことです。一部の御家人が、この橋は頼朝の不慮の死があり、また、橋を造った稲毛重成が非業の死を遂げるなど、橋には怨霊がついているから、むしろ取壊すべきと主張したのに対して、実朝は頼朝の死も重成の死も橋とは関係ないとして、直ちに修理することを命じているのです。案外に開明的であったのでしょう。この橋があったことにより、数年後に起きる承久の変では、幕府軍は間髪を置かず、京都に攻め上ることが出来ました。

鎌倉時代の、京鎌倉往還道ですが、茅ヶ崎には、3本のルートがありました。南から、浜街道、中央道、北街道というもので、メインは馬入橋に繋がっている中央道でした。当時の相模川は、現在、古相模川と呼ばれているもので、平太夫新田から今宿に入り、旧橋脚のところでは東に流れ、松尾を経由して海に注ぐものでした。実朝時代に一度は修理された馬入橋が、いつの頃までメンテされたのか、突き止めてみたいテーマです。

川べりの見える限りに曼殊沙華

京鎌倉往還道
茅ヶ崎市内の京鎌倉往還道 茅ヶ崎市史5より