俳句的生活(98)-南洋神社ー

戦前、日本政府には南洋庁という官庁がありました。これは、第1次世界大戦で日本の委任統治領となった西太平洋ミクロネシアの島々を統治するものでした。統治領の中心はパラオというところで、場所は、フィリピンのミンダナオ島の東、東京の真南といったところです。ここに昭和15年に、神社が造られることになりました。その宮司に選任されたのが、現在、第六天神社の宮司をされている櫻井さんのお父さんだったのです。

以下は、櫻井さんから伺ったお話の要約です。夏の暑い日に、茶屋町の家並図を写真撮影させてもらうために訪問した時のことで、社務所でのお話の最中には、缶コーヒーまで出してくださいました。

櫻井家は、もともとは能登の国一之宮の気多(けた)神社で、代々宮司を務める家柄でした。櫻井さんで45代となるそうです。お父さんも気多神社の宮司さんでした。それが、紀元2600年記念事業として、パラオに官幣の大社を造ることになり、お父さんが宮司に選任されたのです。南洋諸島が委任統治領となって既に20年以上過ぎていて、多くの日本人が、サトウキビやバナナ、ココナッツといった亜熱帯の商品の輸入業務に携わっていました。これらの島々は南洋諸島と呼ばれ、遠く雄飛の先として、日本人の夢を掻き立てていたのです。パラオの総人口13万人の内、日本人は7万人を占めるようになっていました。新しく造られる神社には、南洋神社という名前が付けられ、日本人と島民を繋ぐ文化的ツールとなりました。櫻井さんが生まれたのは神社が出来た直後の昭和16年のことです。

櫻井さんの最初の記憶となっているのは、昭和19年の2隻の船による撤退でした。途中、1隻は潜水艦の攻撃を受け、赤々と炎上し沈没していく様が、脳裏に刻まれているそうです。残された本殿は、終戦直後、日本人の手で焼却処分されています。

帰国後、お父さんは一旦、寒川神社で神職に就かれ、昭和25年に、第六天神社の宮司さんになられました。当時、第六天神社は荒廃していて、本殿以外なにもないような状態で、社務所などもそのような中から作っていったそうです。今は庭にも多くの樹木が植わっていますが、これは櫻井さん自身で手植えしたもの、神社の裏手には大きなクロマツが一本植わっています。幹の太さは茅ヶ崎で一番であるとのことです。

櫻井さんのルーツである能登には、今でも氏子さんたちと毎年のように訪問しているそうです。十代前の櫻井家からは、加賀100万石の前田家の奥に輿入れがあったそうです。

新田義貞の鎌倉攻めで、神社が兵火にあったという由緒書、この案内板を造ったのが櫻井さんなのか先代なのか、残念ながら聞き逃しました。”兵火の祝融”という表現は、太平記に記されている文言です。

宝殿に泥な落としそ夏燕

Nanyo Shrine.JPG
不明 – 大月書店「写真図説 日本の侵略」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

南洋神社

第六天神社
第六天神社の由緒書