俳句的生活(82)-明治の数学者ー

旧鉄砲通りの、花房義質の別荘の2軒隣に、菊池大麓という別荘があります。この人は、明治維新の2年前、11歳のとき英国に留学し、22歳で東京帝国大学で数学の教授となった人です。日本人として第1号の数学教授でした。

江戸時代、日本では子供たちに、算術が寺子屋で教えられていました。これは子供たちが、将来商人になったときに必要とするものを教えたものです。一方、幕府天文方のようなスペシャリスト達は、高度な和算を仕事として使い、和算はちょっとしたブームになっていました。明治政府は、近代化のためには算術は和算ではなく、洋算を採用しますが、当初、寺子屋や出来たばかりの小学校で洋算を教えたのは、不要視された和算家たちでした。彼らには初等洋算を理解し伝授していく力量は十分に備わっていたのです。

しかしながら、国としては、中学や師範学校で教える中等数学を、体系化していく必要がありました。そこで活躍したのが菊池のように、西洋数学を留学生として実地に学んだ人たちでした。菊池はケンブリッジ大学を首席で卒業し、学位をとっています。学ぶことは全て新しい内容のもので、学んだことを教育行政として実現していくことは、わくわくしたものであったに違いありません。菊池は明治の日本人らしく、数や空間の性質を掴むことは、人間性を豊かにする、と言っています。

菊池の弟子に、藤沢利喜太郎という人がいます。彼は菊池より6歳年下で、第2号の日本人数学教授となりました。菊池が教育行政を主としたのに対して、藤沢は研究者で、海外に通用する多くの論文を残しています。藤沢の14歳年下の弟子に、高木貞治という人がいます。彼の著した「解析概論」は、初版から80年以上も経過していますが、今なお、理科系の学生に読まれている名著となっています。

菊池は、明治31年に東京帝国大学の総長となり、文部大臣を経て、明治41年に京都帝国大学の総長となりました。亡くなったのは大正6年、茅ヶ崎の別荘に避暑に来ているときでした。死因は脳溢血、享年62歳でした。

鴨千鳥かた足飛びをするごとく

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「菊池 大麓」