俳句的生活(83)ーアルピニストー

昭和27年に占領からの独立を果たし、35年から始まる高度成長期までの8年間は、まさに戦後日本の黎明期でした。昭和31年には国際連合に加盟し、その前後に、京都大学によるカラコルム探検、槙有恒を隊長とするマナスル初登頂、西堀栄三郎を隊長とした南極越冬と、快挙が続き、もはや戦後ではないというメッセージとともに、大躍進のスタート台に並んでいたのです。

アルピニスト槙有恒が茅ヶ崎に住むようになるのは、昭和22年からです。もともと自宅は横浜だったのですが、戦災に遭い、長野の大町を経て茅ヶ崎に来ました。その訳は、槙の奥さんが茅ヶ崎に別荘をもっている大島健一の4女であったことによります。健一はその年に亡くなり、兄の浩は巣鴨に収監されていて、母親一人という状態だったので、その世話をする必要があったのです。

槙の家は資産家で、彼は慶応を出ていますが、ほとんど仕事らしい仕事には就かず、専ら山を相手としていました。登山技術はスイスアルプスで身に付け、アイガーやアルバータを登頂し、戦前すでにアルプスの槙といわれるまでになっていました。マナスル登山隊長の話が槙のところに廻ってきたとき、槙は既に62歳になっていましたが、マナスルは、第1次、第2次が失敗に終わっていて、第3次の今回は、背水の陣で臨まざるを得なかったのです。スポンサーは毎日新聞がつきました。隊長としての槙は慎重でした。雪崩の危険性がないかどうかを、別の小高い地点からの観測を続けながら、少しづつキャンプを進めていったのです。登頂の成功は、毎日映画社により、「マナスルに立つ」という記録映画に収められ、一般の映画館で上演されました。記録映画「カラコルム」もそうでしたが、これらの映画は、キネマの上位となるほどに、多くの観客が押し寄せたのでした。

茅ヶ崎に移り住んでからの槙は、午前中、茅ヶ崎海岸を、辻堂から柳島までの間を歩くことを日課としていました。彼はニーチェなどを好んで読んだということですから、恐らく思索をしながらの散歩だったことでしょう。カントのケーニヒスブルグでの規則正しい散歩を思い起させます。

槙は酒を愛する男でもありました。アルピニストらしく、ウイスキーを好まれたようです。茅ヶ崎には42年間住まわれ、昭和64年に亡くなりました。享年95歳でした。

アイガーを手招く如しゼラニウム

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朝日新聞社 – 『アサヒグラフ』 1948年8月18日号, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用
「槇有恒」

マナスル
Ben TubbyManaslu, from base camp trip, CC 表示 2.0, リンクによる

ウィキペディアより引用「マナスル」