俳句的生活(80)ー初代駐朝鮮公使ー

東京都品川区の上大崎三丁目の高台には、花房山と呼ばれる高級マンションや邸宅が立ち並ぶ一帯があります。ここには江戸時代、細川と柳生の下屋敷が並び、明治末からは、日本赤十字社社長を務めた花房子爵が別邸を構えていました。この花房子爵こそ、南湖六道の辻より旧鉄砲道を少しばかり東へ進んだところにある別荘の主、花房義質(よしもと)その人です。

花房義質は岡山池田藩の藩士でした。花房山の隣りは池田山で、池田藩の下屋敷があったエリアです。明治に至っても藩主と藩士の間には繋がりがあった事を窺わせます。因みに上皇后美智子さまの生家は、この池田山にあります。今では「ねむの木の庭」として整備されています。

義質は、慶応3年(1867年)25歳の時、藩命で欧米視察に出かけます。この時期は、幕府の海外渡航禁止令は解除されていて、20数名が維新前に渡航していますが、その中の一人であることは、凄いことです。1年で帰国したあと、義質は外務省に出仕します。その彼を一躍、その後の日本の針路を決定づける事件の主役に押し上げたのが、明治15年(1882年)の壬午軍乱と言われる漢城(ソウル)での保守派の暴動でした。

中国、朝鮮、日本の三国はともに19世紀後半、欧米列強の脅威にさらされます。日本だけはなんとか西洋化に成功し、明治10年から、中国、朝鮮の二か国は明治維新の成功を探ろうと、清国は公使館の設置を、朝鮮は使節団の派遣をしてきます。彼らは日本で接触を持ち、清国公使館側からは朝鮮の使節団に、「朝鮮策略」というものを渡し、国を開化していくことを促しています。その骨子は、中国と親しみ、日本と結び、アメリカと連携し、開国開化していくべき、というものでした。朝鮮の使節団はそれを持ち帰り、国王は開化政策を採用することとしました。

しかしながら、保守派の抵抗はすさまじく、明治15年(1882年)、近代化した軍隊を作ろうとしたことに、国王の実父の煽動のもと、旧軍隊が反撃し、群衆は、花房が初代駐朝鮮公使をつとめる日本公使館に乱入し、公使館員と軍事顧問14名が殺害される、という事件が起こりました。花房は漸くのことで脱出し、一命をとりとめ、事件後結ばれた条約により、中国は3000人、日本は200人の軍隊を漢城に駐留させることになりました。これが結局は、日清戦争が起きる出発点となり、戦争終了後、日本は更に介入の度合いを深めていったのです。

日本に来た開化派の人達はいずれも悲惨な運命を辿ることになりました。清国の初代駐日公使は帰国後左遷され、朝鮮の使節団長は、総理にまで昇進するのですが、日清戦争直後に、親露派に煽動された群衆により、撲殺されることになり、両国の開化の動きは完全に摘まれてしまったのです。

東京向島に、木母寺というお寺があります。この寺には梅若塚があり、寺の名前は梅の字を二つに分けたものです。この寺の境内の裏手に、花房義質が揮毫した「守命供時の碑」というのがあります。これは壬午軍乱でなくなった人達を供養した碑です。この碑が木母寺に置かれているのは、廃仏毀釈で一旦廃寺となった木母寺を再興するのに、義質が尽力したことに依っています。

茅ヶ崎の別荘は、官僚が多く、官僚としてどのような仕事を、明治日本の中でしてきたか、興味の尽きないところです。

空澄みて向き合ふ二個の雪だるま

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不明 – 三省堂「画報日本近代の歴史4」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用
「花房義質」

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楊洲周延 – 私蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用 「壬午軍乱」