第十一話 相模川の杭(目次)
第1回 旧流路に立つ
相模川の旧流路とされる場所で、
報道された「古い木杭」を確かめに来た悠夜たち。
そこは頼朝時代でも現代でもない、
川が西へ移動していく途中の「江戸期の流路」だった。
自然に現れたとは思えない杭の姿に、
嵐山は静かに「人が物語を整えた可能性」を示唆する。
第2回 夕月夜
江戸期の旧流路跡に立つ嵐山たちは、
さらに東にあった「鎌倉期の相模川本流」を想起する。
関東大震災で出現した旧橋脚は、
頼朝・実朝の時代と符合するが、
向きや規模には解けない謎が残されていた。
実朝の和歌が示す豊かな水の情景と、
今は失われた川の姿が、静かに重なっていく。
第3回 舟で渡る川
江戸時代、相模川には橋が架けられず、
人々は舟で川を渡っていた。
六十余の渡しの中で、
東海道を支えたのが馬入の渡しである。
十文の渡し賃、船橋という非常時の橋――
川を「渡らせる」ことで守った時代の選択が浮かび上がる。
第4回 流れを取り違える
江戸時代の旧流路に現れた一本の杭は、「相模川の橋脚」として注目を集めていた。
だが嵐山は、それが本流ではなく、かつての支流に架けられた小さな橋の痕跡である可能性を指摘する。
川は時代とともに流路を変えたが、人々の認識は「今の相模川」を基準に過去を見てしまった。
杭そのものではなく、流れの読み違えが、この小さな “事件” を生んでいた。
第五回 マスコミと専門家の錯誤
発見された杭は「相模川本流の橋脚」として報じられ、
専門家のコメントもそれを前提に積み重ねられていった。
だが実際には、杭は本流ではなく、
江戸期に存在した支流に架けられた小橋の痕跡だった。
流路の変遷を見落としたまま、
言葉と権威だけが事実を塗り替えていく。
第六回 発見者の立ち位置
発見された杭は捏造ではなく、流れの中で意味づけを変えられてきた可能性が示される。
嵐山は、明治四十年の大洪水で流された流木や、戦災で失われた寺の記憶を例に、
「本流の橋脚」という理解がどのように強化されてきたかを語る。
問題は杭そのものではなく、立つ場所と前提を誤った人間の読み方にあった。
第七回 名前が付いた瞬間
発見当初はただの「杭」だったものが、報道や専門家の言葉によって次第に意味をまとっていく。
「橋脚」「相模川」「頼朝の時代」と名付けられることで、物語は一方向に固定されていった。
杭そのものは変わらないまま、見る側の解釈だけが膨らんでいく過程が明らかになる。
名前が付いた瞬間から、事実と物語の距離は静かに広がっていった。
第八回 消せない前提
発見された杭は「相模川本流の橋脚」という前提のもとで語られ続け、訂正も検証も行われなくなっていた。
嵐山は、一度「歴史的発見」として走り出した物語が、修正されにくい構造を指摘する。
誤りは消されるのではなく、語られなくなることで覆い隠されていく。
悠夜は、前提ではなく「跡」を見ることの大切さを改めて意識する。
第九回 発見者のその後
杭の発見者は、いつの間にか報道や議論の中心から姿を消していた。
英雄にも罪人にもならず、発見は静かに公共の解釈へと引き渡される。
嵐山は、発見とは結論を与えることではなく、「問いを残すこと」だと語る。
相模川の流れのように、この出来事もまた、名を持たず次へと流れていった。


