鬼を狩る子孫 第十話 大山詣り(最終回)

スサノオになった日

夕方の光が、
川面に長く伸びていた。

 小出川は、
昼よりも静かに見える。

 子供は、

 救急車のサイレンは、
もう遠い。

 現実の騒がしさが、
少しずつこの場所から引いていく。

「……先生」

 悠夜が、
ふと口を開いた。

「伊勢原って、
 やっぱり “伊勢” なんですか」

 嵐山は、
小さく笑った。

「ええところに気づいたな」

 川の流れを見ながら、
ゆっくり話し始める。

「伊勢原いう地名はな、
 伊勢信仰と無関係やない」

 江戸の人々は、
伊勢神宮に強い憧れを持っとった。

 せやけど、
誰もが行ける距離やない。

「せやからな」

 嵐山は続ける。

「伊勢の神を、
 身近な場所に迎えた」

 伊勢原。
 伊勢講。
 大山詣り。

「大山の神は、
 雨の神や」

 阿夫利神社。
 雨降り神社。

「雨はな、
 恵みでもあるけど、
 同時に恐れの対象でもあった」

 真衣が、
静かに頷く。

「水、ですね」

「せや」

 嵐山は、
川を見た。

「古い時代の人間にとって、
 水は制御できへん自然そのものや」

 だから、
人はそれを
物語にした。

「古事記や」

 悠夜の中で、
点が一つにつながる。

 伊勢神宮。
 天照大神。
 その弟――

「スサノオ」

創作小説の挿絵

 嵐山は、
その名をはっきり口にした。

「荒ぶる神やけどな、
 最後は、
 人を救う側に立つ」

 出雲。

「ヤマタノオロチは、
 怪物やない」

 嵐山の声は、
落ち着いている。

「斐伊川や。
 氾濫を繰り返す川、
 どうにもならん水の象徴や」

 蛇のように
うねる流れ。

「ただな」

 嵐山は、
一拍置いた。

鬼いう考え方は、
 この時代にはまだ出てへん

 悠夜が、
顔を上げる。

「鬼はな、
 もっと後の時代や」

 仏教が伝わり、
 善と悪が
 はっきり分けられるようになってから。

「制御できへんもん、
 外から来たもん、
 恐ろしいもんを
  “鬼” として形にした」

 つまり――

「オロチは、
 まだ “自然” や」

 敵ですらない。
 ただ、
 そこにある脅威。

 悠夜は、
足元の水を見た。

 今日、
彼らが辿ってきた川も、
同じように曲がっている。

「……じゃあ」

 蓮が、
恐る恐る言う。

「SOSを発した子は……」

 嵐山は、
はっきり頷いた。

「助けを求めた姫と、
 同じ位置におった」

 名前も、
身分も違う。

 けど、
構図は驚くほど似とる。

 水。
 境界。
 助けを託す印。

「蛇の落書きもな、
 オロチを
 連想したんやろ」

 意味は分からん。
 けど、
 怖さだけは
 確かに感じとった。

 悠夜は、
胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

「じゃあ……
 俺たちは……」

 嵐山は、
今度は首を振らなかった。

 ゆっくりと、
しかしはっきり言う。

そうや、
 お前らは今日スサノオになったんや

 三人は、
思わず言葉を失った。

「英雄という意味やない」

 嵐山は続ける。

「剣も、
 神の力も、
 使っとらん」

 ただ――

「助けを求める声を、
 聞いた。

 それだけや。

神話いうのはな、
 そうやって
 何度も繰り返される。

 意図せず。
 名前も付かず。

 けど、
形だけは
同じになる。」

「鬼を倒したんやない。

人を、
 救っただけや」

 川は、
今日も流れている。

 止められない自然。
 抗えない世界。

 それでも、
人は耳を澄ます。

 誰かの
小さな声に。

 悠夜は、
空を見上げた。

 山の向こうに、
夕日が沈んでいく。

 大山は、
もう何も語らない。

 だが、
確かに今日、
人の営みと
はるかな神話は、
同じ場所で
そっと重なった。

 それだけで、
十分だった。

第十話 完