俳句的生活(331)-連句(16)-
今回より発句の季節を「夏」にしました。早速「入道雲」という、いかにも夏を象徴する季題が出てきました。
今回の連句を始めるに当たっては、末尾に添付しましたが、遅まきながらこの会で踏襲している式目を、”式目十訓” と名付けて明文化してみました。事物ごとに、何回連続して使ってよい(句数(くかず))とか、一度離れると次に使うには何句間を開けなければならない(句去(くさり))とかのようなものは式目には入れず、簡単なものにしています。
連句(16)『入道雲の巻』
令和7年4/22(火)〜4/25(金)
連衆 二宮 紀子 典子 游々子
(発句) 湧きあがる入道雲のこぶし立つ 二宮
(脇句) 九回裏の夏の球場 紀子
(第三句) 邦楽の演奏会の幕開きて 典子
(第四句) 皇居に此処と松の廊下よ 游々子
(第五句) 紅葉葉に塩田の月のもれるとき 二宮
(第六句) 歴史絵巻の菊人形に 紀子
(第七句) 秋うららクルーズ船のチラシ手に 典子
(第八句) 恋の予感の当たること無し 二宮
(第九句) 巴塚木曽より出でて寄り添ひて 游々子
(第十句) 早朝からの坐禅体験 典子
(第十一句) 瞑想の静かな呼吸ヨガの会 紀子
(第十二句) 目の前にある花の一輪 二宮
(第十三句) 雪吊りの兼六園の月明り 典子
(第十四句) 時雨の町の漆職人 紀子
(第十五句) 時の鑿連山刻み里暮らし 二宮
(第十六句) 黒曜石を掘りし昔人 游々子
(第十七句) 川岸に寄りて離るる花筏 典子
(第十八句) 春灯ともる花街の路地に 紀子
(第十九句) 大楠を見下ろし翔ける初燕 游々子
(第二十句) 背にラケット駆くる自転車 典子
(第二十一句) 引かれゆく甲斐の棒道風やさし 游々子
(第二十二句) 六文銭の駅に降り立つ 紀子
(第二十三句) 威勢良し天神祭のギャルみこし 典子
(第二十四句) 川風汗をお布施と配る 二宮
(第二十五句) モンゴルに夢をいだしき人多し 游々子
(第二十六句) 二人で見上ぐ満天の星 典子
(第二十七句) 帰宅せし夫に自慢の手料理を 紀子
(第二十八句) 味を楽しむ人をよろこぶ 二宮
(第二十九句) なぜ月は落ちてこぬのと問ふ童 游々子
(第三十句) 赤い羽根差しはや社会人 紀子
(第三十一句) 播磨には喧嘩祭りの紙飾り 二宮
(第三十二句) 如水は嘆く関ヶ原の報 游々子
(第三十三句) 教会の鐘に夕日の傾いて 典子
(第三十四句) 幼稚園あり三角の屋根 二宮
(第三十五句) 集い来し老若男女花の下 紀子
(挙句) 蓙にどっかり並べる酒肴 游々子
発句は力強い入道雲の季題で始まりました。脇句は発句と同じ場所、同じ時刻を詠み、発句を補完するものとなっています。ここでは甲子園球場を思わせるものが出て来ました。この発句と脇の二句で今回の連句の骨格を決めるものと言われています。第三句は大きく展開するもので、入道雲とは真逆の優美な邦楽を据えてきました。第四句は邦楽より皇居を連想し、新たに「松の廊下」という種を蒔いてみました。第五句は忠臣蔵より赤穂の「塩田」を連想、第六句はそれを「歴史絵巻」と準えています。第七句は場面の展開、八・九句は恋の句です。第十句は義仲寺より座禅を連想し、第十一句はそれをヨガに結び付けました。第十二句は「静かな」情景を眼前の生け花に具現化。第十三句は花より日本庭園に展開、第十四句は金沢の漆職人。第十五句は長い「時」が鑿(のみ)となって山を浸食したという句。それならばそれは諏訪の連山で、そこには縄文人が多く集まり黒曜石を掘っていた、というのが第十六句となっています。
式目十訓
① 発句は一巻の連句を率いるにふさわしい格調の高いものにする。それだけを取り出しても俳句として通用するものを。
② 脇句は、発句と必ず同季・同場・同時の短句。体言止めのほうが納まりがよい。発句と脇句で短歌の ような世界を作ること。
③ 第3句は、変転の始まり。思い切った発想、飛躍の長句を。第3句は特別に、下五を、して、 て、に、にて、らん、もなし、の語で留める。
④ 第4句以降は筋書きのない絵巻物を楽しく繰り広げていく。絵巻は序破急を尊ぶので、静かな出だしとし、最後は穏やかにまとめる。挙句はハッピーエンドとする。第34,35句は挙句がハッピーエンドになることをサポートする積りで作る。
⑤ 切れ字「や」は発句では使って良いが、第3句以降は使わないようにする。要は発句は俳句的な句を、第3句以降の長句は俳諧的な句を作る。
⑥ 第6句までは、神祇(神社に関するもの)・釈教(仏閣に関するもの)・人生の述懐・無常を避ける。
⑦ 叙景句は3句以上は続けない。なるたけ多彩な内容の連句になるように自分の番での句を作っていく。
⑧ 前句で使われている言葉(語)は使ってはならない。前々句の趣向を繰り返してはならない。
⑨ 後半(二の折)に入ってからは、多少羽目をはずした句があっても良い。その方が連句らしくなる。
⑩ 前句に関連性を持たせつつ、付き過ぎないようにすることは、永遠の課題とし、芭蕉の「一歩もあとに帰る心なし」を信条とする。良い付け句とは、単に関連性を持つことではなく、前句に一段の深みを与えるものであることを心得とする。