俳句的生活(315)-鴫立庵(6)明治の変革ー

三世鳥酔から幕末の十世立宇まで、五色墨派の俳人が鴫立庵主を代々務めるという伝統も、明治になって大きな変革の波にさらされることになります。その契機となったのは、明治4年に施行された地租改正でした。

江戸時代の鴫立庵は、俳諧堂宇として、税を課されない寺院と同じ扱いの除地(よけち)となっていました。ところがこの地租改正では、田畑に対しては収穫高に年貢を課すというのではなく、土地の生産力(地価)に応じて税を課すという方式に改められ、商家や寺社にも税が課せられ、鴫立庵もその対象となってしまったのです。江戸時代には登記簿のようなものはなく、生産に直接かかわっていない鴫立庵のようなものは所有者が曖昧としていて、誰に課税して良いのかが不明となってしまったのです。それを解決する手段として鴫立庵は大磯町大磯という地区の共有地ということにして、課税対象からはずすという処置をとったのでした。

その後、御料地(皇室所有の土地)となった時期もありましたが、戦後には神奈川県に払い下げられ、現在は土地は神奈川県が、建物は大磯町が所有し、土地については大磯町が神奈川県より借りるという形になっています。維持・管理については大磯町が民間の管理会社に管理料を支払って委託しています。

このように鴫立庵は、社会が近代化する中で、公共の場へと変化していったのです。大磯は明治18年に松本順によって海水浴場が開設されて以来、別荘地・避暑地として開けましたが、大磯に別荘を構えた西園寺公望に俳諧を指導するという庵主も現れてきました(十三世間宮宇山)。

そうした中、大磯宿で廻船問屋を営み、大旅籠を所有していた家より、鴫立庵の史上初めて、大磯出身で庵主となった人物が現れます。原昔人(せきじん)という、東京専門学校(後の早稲田大学)と東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)に進学し、正岡子規から俳句を学び、鴫立庵の俳風を江戸時代の保守的なものから近代的なものに変えた庵主です。昔人の生まれは明治3年で、ちょうど子規と高浜虚子の中間になっています。

原借人
昭和初期の原昔人(十五世庵主)

昔人の句がどのように近代的であるのか、それは鴫立庵に置かれている句碑の句から窺うことが出来ます。

俯向て澤の音きく時雨かな 昔人

この句は非常に繊細で、俯いて澤の音を聞くという動作が、静かな時雨(しぐれ)の中での感覚を巧みに捉えており、自然の音や風景に対する感受性がよく伝わってくるものとなっています。

昔人は美術大学で彫金を学び、子規にカエルの像を贈っています。鴫立庵に置かれている像はそのレプリカです。

原借人が造った蛙の像
原昔人が子規に贈った蛙の像(レプリカ)

大磯出身の庵主昔人は、地元の人々から大きな期待を受け、昔人もその期待に応え、大磯町立の高等女学校で国語の教師を務めるかたわら、鴫立文庫の設置や郷土誌の編纂など、地域の教育・文化活動に広く携わっています。彼こそが江戸期の鴫立庵から今日の鴫立庵へと、真の変貌を成し遂げた庵主であると言えます。

今鴫立庵は大磯町の町税によって維持されています。ところが建物の屋根は下の写真のように相当傷んだ状態になっています。庵の現在の収入は微々たるもので、現在の委託管理も人件費の高騰その他により管理料を値上げせざるを得なくなることは簡単に予想出来ます。今後とも鴫立庵の維持が継続されるためには、伝統ある俳諧道場であったことを武器として、テレビやSNSで取り上げられるイベントを開催し、収入の増大を図ることが喫緊の課題であると思っています。

鴫立庵の屋根
鴫立庵の屋根