俳句的生活(19)-茅ヶ崎八景ー

近江八景とか金沢八景とか、日本には八景と名の付く景勝地がいくつかありますが、それらは全て、中国の瀟湘八景を模したものです。瀟湘とは湖南の瀟水と湘江が合流して洞庭湖に流入する地域のことで、湘南の湘はここが発生源となっています。風光明媚な水郷地帯で、山水画の画題を提供してきた処です。画題として、八つのものが定型化し、八景として地域と結びついて瀟湘八景となり、日本では江戸時代に近江八景や金沢八景が生まれ、更に明治になって茅ヶ崎で生まれたものが、茅ヶ崎八景でした。

日本の八景は瀟湘八景を模したものと述べましたが、具体的に言えば、名勝を八つの二字からなる漢字で著したのです。それらは、夜雨、落雁、晩鐘、晴嵐、暮雪、夕照、秋月、帰帆 というもので、全ての八景に共通しています。有名処を挙げれば、三井の晩鐘とか比良の暮雪 といったものがあります。誰がその地をそのように呼び出したかは、江戸時代のものや、宋の時代のものは追跡の仕様がないのですが、日本の明治以降に名称が与えられたものは、いつ、だれが、ということは判っています。一言でいえば、勝手に名前付けされたものなのです。許可を得るとか、多数決で決めるといったものでなく、早い者勝ちで決めていかれたのでした。

話を茅ヶ崎にもどせば、当地では明治30年から末にかけて、3つの版元によって3種類の茅ヶ崎八景が決められました。茅ヶ崎館はその3つの版元のうちの一つです。以下、煩雑になるので、茅ヶ崎館が決めたものを茅ヶ崎八景として扱っていくことにします。

柳島の落雁、鶴嶺の晩鐘、大山の晴嵐、富士の暮雪、鳥井戸の夕照、高砂の秋月、姥島の帰帆 が茅ヶ崎館の七景です。7つしかないのは、夜雨の絵葉書が見つかっていないためで、因みに茅ヶ崎館以外の二つの版元は、一里塚の夜雨としています。当時、一里塚のある東海道のあたりは、今のような松並木ではなく、十間坂あたりまで松原だったようです。姥島(うばじま)とは烏帽子岩のこと。次回より、茅ヶ崎館の絵葉書と現在の光景とを比べてみようと思います。同じアングルでの写真が取れればのことですが。

余談ですが、瀟湘八景のある湖南省には、春秋戦国の時代、楚と呼ばれた国がありました。楚が生んだ英傑は項羽であり、楚漢戦争の間常に彼に寄り添っていたのが虞美人(虞姫)でした。垓下の戦いで敗れた二人は、再び楚に帰ることなく死亡しますが、虞美人が死んだ地に咲いた花がヒナゲシで、それよりヒナゲシは虞美人草と呼ばれるようになりました。

恋し楚や一輪ひらく虞美人草 游々子

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ウィキペディア(Wikipedia)より引用 湖南省の地図と瀟湘八景の位置

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