俳句的生活(8)-柳島湊ー

現在でこそ茅ヶ崎海岸は、ほぼ一直線で相模湾と向き合っていますが、関東大震災前は海岸線も川の流路も今とは全く異なっていました。地震により、江ノ島で0.9m、柳島で1.4m土地が隆起したためです。現在の134号線と鉄砲通りは、砂丘の上に作られた道であるために標高が高く、その間の低地は、隆起する前には、柳島小学校辺りまでが入江となり、柳島湊と呼ばれていました。そこは、江戸時代には、相模川と江戸や伊豆とをつなぐ水運の一大拠点となっていたのです。その中心に居たのが、柳島村で代々名主をつとめ、農業と廻船業を営んだ藤間家でした。400石船を2艘有して、相模川河口で集積された物資(相模川では帆掛船が利用されていた)を江戸や伊豆へ運んでいたのです。鉄砲道を挟んで柳島小学校と反対側に位置する藤間家の母屋は、現在は資料館となり、貴重な資料の保存に尽力されています。かって入江はその家の近くまで、迫っていたのでした。

ほととぎす碑文暗しや大湊 游々子

相州砲術場石碑
柳島湊跡の碑
藤間家屋敷跡
明治16年柳島の地図
ウィキペディア(Wikipedia)より引用 1882年の相模川河口(彩色)

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