俳句的生活(207)ー木曽へ行った三浦一族ー

数年前のことになりますが、就寝前にベッドの中で、島崎藤村の「夜明け前」を少しずつ読んでいき、2か月ほど掛けて読了したことがあります。「木曽路はすべて山の中である」の書き出しで始まるこの大作は、昭和4年から10年までの6年を費やして、藤村が自宅の蔵に残っていた膨大な古文書を丁寧に調べて書き上げた、半分ノンフィクション的な小説です。明治5年生まれの藤村にとっては、幕末から明治への移り変わりは、我々の世代にとっての太平洋戦争と同じに、割と身近なものであったと推測できます。

夜明け前

この小説で述べられている驚愕的な事は、島崎家(小説では青山家)の祖先は、600数十年前に、相州から移住してきた三浦の一族であったということです。小説では、山上七郎左衛門という人物が木曽路を行く途中、妻籠の本陣の紋が自分の家のと同じものである事に気付き、「自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門というのであるが、かねて自分の先祖のうちに分家して青山監物と名乗って、三浦から木曽の方へ移り住んだと聞いているが、もしか本陣の先祖は青山監物という人ではないか」と尋ね、接点が出来ていきました。

島崎家の家紋

「鎌倉殿の13人」の最終回、三浦義村と北条義時は、盟友関係を続けていくことで和解していますが、義村の次の代で、北条と組んだ安達氏の策略で、三浦氏は有力御家人としての地位を失っています。泰時が執権の間は鎌倉にも平和が保てたのですが、泰時の死後、鎌倉は再び御家人が相争うことになってしまったのです。三浦の本家はその争いで滅亡しますが、分家として生き残った三浦氏の中で、更なる分家が木曽に移り住み、島崎家の祖先となっていったのでした。

青山監物=島崎監物という武将は、武田信玄の配下で馬籠城の城主を務め、その子孫が江戸時代に馬籠・妻籠の本陣や名主を務めるようになり、藤村にまで至ったのでした。

馬籠城址

山上家=永島家は今も横須賀に、なまこ壁の長屋門をもった立派な家として残されています。柱や桁が朱塗りであることから、一般には「赤門」と呼ばれています。永島家は戦国時代には小田原北条氏の支配下で浜代官となり、江戸時代には名主を務めていました。

永島家の門

従弟関係であった北条義時と三浦義村、北条の末裔を探すのは難しいのですが、三浦の末裔はこのように今も存在していることに、歴史の皮相を覚えずにはいられません。