満蒙への道(30)ー軍閥(2)ー

明治の政府は薩長藩閥政府と言われていますが、それは軍においても同様で、要職は薩長出身者によって占められていました。陸軍においては、薩摩閥が西南戦争で壊滅したため、長州閥が上層部を独占することとなり、長州出身であれば、能力のない人物であっても中将、大将となっていったのです。

ところが大正も半端を越し、長州の大御所であった山縣有朋が衰弱してくると、様相に変化の兆しが現れてきました。山縣の死の3か月前の大正10年10月、陸士16期の同期生である岡村寧次(後に支那派遣軍司令官)

岡村寧次

小畑敏四郎(後に陸大校長)

小畑敏四郎

永田鉄山(後に陸軍省軍務局長)

永田鉄山

の三人が、ドイツ南部の保養地バーデンバーデンで会合し、派閥解消、人事刷新、軍制改革を申し合わせ、長州閥に対抗する新たな派閥を結成していったのです。因みに彼らの出身は、岡村は幕臣、小畑は土佐藩、永田は諏方高島藩となっています。この大正10年が、長州という出身地を地縁とした閥から、陸大出身という学閥に移行していく画期となりました。

余談ですが、バーデンバーデンという温泉地は、ブラームスが第一交響曲を作曲した処です。

バーデンバーデン

ブラームスはベートーベンを超えようと、この最初の交響曲には20年の年月をかけています。ベートーベンが第九交響曲を作曲したのは、オーストリアのバーデンで、紛らわしいのですが、ドイツのバーデンバーデンとは別の処です。

彼らは昭和2年より派閥結成を始め、昭和4年には、一夕会という陸大出身の佐官級軍人40人からなる派閥を形成し、省部(陸軍省と参謀本部)での要職を占めるようになっていきました。彼らは政治に容喙し、昭和12年の内閣組閣においては、昭和天皇からの大命降下があったにも関わらず、軍部から陸軍大臣を出すことを拒否し、組閣を流産させることまでやってのけています。それが佐官級の軍人によるものですから、下剋上も極まったものです。

彼らが政治に容喙するようになった下地は、彼らの強烈なエリート意識に依っています。彼らの家庭は概ね裕福ではなく、従ってハングリー精神が強く、小学校から陸軍幼年学校へ、あるいは旧制中学から陸士へと進んだ彼らの成績は、小学校から旧制中学へ、あるいは旧制中学から旧制高校へ進んだ他の生徒たちよりも概ね優秀で、経済的理由で軍人への道を選んだのが多かったのです。

しかも、軍人になってからの待遇も恵まれたものではなく、次の様な昭和10年で40歳となっている3人の年俸の比較データがあります。

* 岸信介(商工省工務局長) 4300円(現1075万円)
* 我妻栄(東大法学部教授) 3250円(現813万円)
* 稲田正純(参謀本部部員) 2330円(現583万円)

稲田は陸大の卒業で恩賜の軍刀をもらった陸軍での超エリートですが、高等文官試験に合格して官吏となった岸の半分の年俸でしかありません。これでは腹の虫が収まるはずがありません。

稲田は昭和13年のノモンハン事件の時は、参謀本部で作戦課長の地位についています。現地の関東軍が軍記違反を犯してもそれを糾弾することなく追認しています。戦後、NHKの取材に対して、天皇への報告などはどうとでもなったとし、昭和天皇のことを ”天ちゃん” と呼んでいるのです。天皇と佐官級の軍人との関係が、このようなものであったことに、戦慄を感じてしまいます。

明治維新と太平洋戦争で敗者側の二人のリーダー、徳川慶喜と昭和天皇に共通するのは、二人とも世間知らずの貴公子であったことです。慶喜にもし家康ほどの知略と胆力があれば、あれほど簡単に薩長の下級武士の陰謀に屈することはなかったでしょう。そして昭和天皇が即位した時点で40歳にまでなっていたら、40歳代の佐官に斯くも舐められることはなかったでしょう。返す返すも残念でなりません。