俳句的生活(6)-高座郡衙ー

古代律令の時代、相模の国は8つの郡から成っていました。茅ヶ崎、藤沢から相模原までは高座郡(たかくらぐん)と呼ばれ、その郡衙が茅ヶ崎の下寺尾に置かれていて、その遺構が、2002年に北稜高校のグランドの調査をしていたときに、偶然発見されたのです。郡庁は、標高13mの台地の上に造営され、その建物の威容は、周囲どこからでも見えるものでした。この遺跡の下の地層からは、弥生、縄文の遺跡が発掘され、更に古い時代でも、人々の住みやすい環境であったことが窺えます。台地には富士山が今も、何物にも遮られることなく、大きな存在として迫っています。近くには貝塚があり、縄文時代には、海はこのあたりまで来ていたことの証拠物件です。郡衙のすぐ下には、小出川が流れ、そこには船溜まりとなる川幅が広げられたところがあります。当時、小出川は水運にも利用されていたと推測されるのです。この郡衙は9世紀になってから衰退していくのですが、それは現在の246に沿って新しい道が作られ、人流が変わってしまったことに依ります。律令制が崩壊し、荘園の時代へと変遷していったこととも符合しているのです。次は小出川の源流を訪ねてみようと思います。

あおによし伽藍に游ぶ水鶏(くいな)かな 游々子

小出川の船泊跡
相模郡衙跡
相模郡衙地図

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